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欅(けやき)の木陰にて憩う

口はきかなくても、海靖の姿はよく目にしていた。
指揮官として馬上にいる彼は大変立派だった。
常に先頭に立って将軍以下の兵士たちを率いている。
兵士たちもまた、海靖さまは立派な方だとよく口にしていた。
下々の兵士のことまでよく気にかけているようで、彼らはそれをとてもありがたく思っているようだった。
だからこそ、兵士たちは毎日こんな内緒話をしていた。
「あんなに立派な方なのに、なんで劉義法さまを討つなんてこと考えるかなあ」
「誰が見たって、陛下のほうが間違っているのに」
そんな声を耳にするたび、梨夜もそう思っていた。
海靖ならわかりそうなものなのに。

今の皇帝にはもう、国を治める力はないと。

十日間、海靖を見続けてきた梨夜は、彼に尋ねてみたいと思うようになっていた。
なぜ、海靖ほどの人が、劉義法を討とうとするのかと。
物事を正しく見る目を持っているように見えるのに。

劉義法の軍は、目の前まで近づいて来ているそうだった。
いよいよ戦が始まろうとしていた。

その晩、海靖の一行は、街道沿いの野原に宿営することになった。
大きなけやきの木が数本生えているだけで、見渡す限り何もない。
何もないところに、次々に天幕が設営されてゆく。
西の空は真っ赤に染まり始めており、食事の支度をする兵士たちが忙しく動き始めている。
かまどの煙があちこちから立ちのぼる。

梨夜にも一つの天幕が与えられた。
海靖の側近が顔を出す。
「何かございましたらお申し付けください」
「いつもありがとうございます」
いつもなら、話はこれだけで終わりだった。
側近は静かに去ってゆく。
だがいま、梨夜は側近に頼むことにした。
「あの、では」
側近のほうも、用があることに少し驚いたようだった。
「海靖さまにお目にかかりたいのですが」
「さようでございますか。ではお話をしてまいりますので、少々お待ちください」

側近はすぐに戻ってくる。
「お会いになるそうです」
側近が先導して、梨夜を一つの天幕に案内した。
天幕の後ろのほうに、大きなけやきの木が生えている。
「お連れ申し上げました」
という側近の声に、海靖の声が返ってくる。
側近がそっと帳をあけた。

中では海靖が小さな椅子に腰を下ろしていた。
梨夜が中に入ると、帳は外から静かにしまった。
「どうした」
梨夜は、海靖の前まで進んだ。
そして、一つ息をついてから口を開いた。
「お聞きしたいことがございます」
海靖は、梨夜をじっと見つめた。
「都を出て十日がたちました。兵士たちは皆、口をそろえて、海靖さまのことをとても立派な方だと申しております。わたしの目にも、そのように映ります。
そんな海靖さまがなぜ、劉義法さまを討とうとなさるのですか?
この十日間拝見した限りでは、海靖さまがそんな風に考えることがとても信じられません。海靖さまでしたら、これは間違っているとおわかりになりそうなものですのに。
海靖さまは、父の件でわたしに謝罪までしてくださいました。それなのに、どうしてこの軍を率いていらっしゃるのですか」
梨夜が口を閉じると、海靖は梨夜からかすかに視線をそらした。
そして、しばらくじっと一点を見つめていた。
深く輝いている瞳からは、彼の思慮深いことが十二分にうかがわれる。

だが彼は、口を開くより先に、まず立ち上がったのだ。
立ち上がる拍子に、腰の剣が音を立てる。
「十日間、ずっと馬車で疲れたろう」
「え…?」
「早く食事を済ませて、ゆっくり休みなさい」
海靖はそう言うと、帳に向かって歩き出した。
外に出るというのだ。
「海靖さま!」
梨夜は慌てて後を追った。
彼が帳を中からまくると、外で待っていたらしい側近がすぐに外から帳を開けてくれる。
外に出た海靖は、天幕の周囲を回った。
「海靖さま、お答えください!」
梨夜の声は届いているはずだ。
海靖は天幕を半周し、けやきの木の前で足を止めた。
そして、その木を見上げた。
夕日の中、けやきは静かにたたずんでいる。
「海靖さま!」
梨夜が急かしても、海靖は一切答えようとしなかった。
ただ、別のことを口にした。
「おそらく、明日には劉義法らと対峙するはずだ」
「……本当に攻めるおつもりなのですか」
「そうでなければ、私はわざわざ大軍を率いて、ここまで何をしに来たのか」
確かにその通りだった。

「ですが、それならなぜ、わたしをこうして気にかけてくださるのですか?海靖さまが陛下のためにこうして軍を率いているのなら、早くわたしを捕まえて、陛下に差し出せばよろしいではございませんか」
「そうだな」
海靖はそうあっさりと答えた。
その言葉には気持ちが込められていないことはわかった。
だが、それならば本当はどういう気持ちでいるのか。

海靖が何を考えているのか、梨夜にはわからなかった。
それに、何を尋ねても、何も答えてはくれないと思われた。
もうこれ以上いても無駄だろうと、梨夜は一礼だけすると、海靖に背を向けて歩き出した。
するとすぐに海靖の側近が追ってきて、送ると言ってくれる。
振り返ると、海靖はまだけやきの下にいた。
そして、こちらをじっと見つめていた。
少し心配そうにしながら、何か言いたげに。

自分のことはこんなにいたわってくれるのに。
なぜ彼は、軍を率いてここまでやってきたのだろう。

翌日の午後、海靖の軍に緊張が走った。
川の向こうに、劉義法の軍が見えてきたのだ。

川岸の両側に、それぞれの陣が展開された。
それを梨夜は見つめながら、一人考え込んでいた。
川を渡りさえすれば、そこは劉義法の陣営だ。
開戦は明日だろうと兵士が噂をしている。
それならば、暗くなってから川を渡ろう。

陣営を外れて下流のほうに少し向かえば、一人でも渡れそうな浅瀬があった。

海靖は、劉義法の軍を目の前にしてもこれまでとまったく変わらなかった。
将軍を率いて陣営を回っている。
兵士たちに声をかけては、いたわりねぎらっている。

梨夜用の天幕が、川岸から離れたところに用意された。
日が暮れると、食事が運ばれてくる。
運んできてくれたのは、いつもの側近だった。
「戦は明日だと海靖さまはおっしゃっております。梨夜さまには、ここからお出になりませんよう」
「わかりました」
そう言いつつ梨夜は、夜になるのを待った。

夕方から夜になり空が暗くなると、周囲にはたくさんの火がたかれる。
見回りの兵士が持つたいまつも、周囲を絶え間なく行き来する。
梨夜がそっと天幕を出る姿は、多くの者に見られていた。
だが誰も見とがめない。

何か用があるのだろう、皆そう考えるからだ。
この人は何か用があって、こんな時間に一人で歩いているのだろう、と。
自分にはその詳細はわからないが、他の誰かは知っているに違いないと。

そう思われた梨夜は、誰にも声をかけられずに陣営から出ると、浅瀬に向かった。
だが、いざ渡ろうとしたところで、背後から人が駆けつける音が聞こえてきたのだ。
月明かりで照らされた人影は、数人いるようだった。
誰だろう?
自分を追ってきたのだろうか。
逃げ出そうとした梨夜の耳に、知っている声が届いた。
「梨夜!」
それは海靖の声だった。


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