欅(けやき)の木陰にて憩う
六
口はきかなくても、海靖の姿はよく目にしていた。
指揮官として馬上にいる彼は大変立派だった。
常に先頭に立って将軍以下の兵士たちを率いている。
兵士たちもまた、海靖さまは立派な方だとよく口にしていた。
下々の兵士のことまでよく気にかけているようで、彼らはそれをとてもありがたく思っているようだった。
だからこそ、兵士たちは毎日こんな内緒話をしていた。
「あんなに立派な方なのに、なんで劉義法さまを討つなんてこと考えるかなあ」
「誰が見たって、陛下のほうが間違っているのに」
そんな声を耳にするたび、梨夜もそう思っていた。
海靖ならわかりそうなものなのに。
今の皇帝にはもう、国を治める力はないと。
十日間、海靖を見続けてきた梨夜は、彼に尋ねてみたいと思うようになっていた。
なぜ、海靖ほどの人が、劉義法を討とうとするのかと。
物事を正しく見る目を持っているように見えるのに。
劉義法の軍は、目の前まで近づいて来ているそうだった。
いよいよ戦が始まろうとしていた。
その晩、海靖の一行は、街道沿いの野原に宿営することになった。
大きなけやきの木が数本生えているだけで、見渡す限り何もない。
何もないところに、次々に天幕が設営されてゆく。
西の空は真っ赤に染まり始めており、食事の支度をする兵士たちが忙しく動き始めている。
かまどの煙があちこちから立ちのぼる。
梨夜にも一つの天幕が与えられた。
海靖の側近が顔を出す。
「何かございましたらお申し付けください」
「いつもありがとうございます」
いつもなら、話はこれだけで終わりだった。
側近は静かに去ってゆく。
だがいま、梨夜は側近に頼むことにした。
「あの、では」
側近のほうも、用があることに少し驚いたようだった。
「海靖さまにお目にかかりたいのですが」
「さようでございますか。ではお話をしてまいりますので、少々お待ちください」
側近はすぐに戻ってくる。
「お会いになるそうです」
側近が先導して、梨夜を一つの天幕に案内した。
天幕の後ろのほうに、大きなけやきの木が生えている。
「お連れ申し上げました」
という側近の声に、海靖の声が返ってくる。
側近がそっと帳をあけた。
中では海靖が小さな椅子に腰を下ろしていた。
梨夜が中に入ると、帳は外から静かにしまった。
「どうした」
梨夜は、海靖の前まで進んだ。
そして、一つ息をついてから口を開いた。
「お聞きしたいことがございます」
海靖は、梨夜をじっと見つめた。
「都を出て十日がたちました。兵士たちは皆、口をそろえて、海靖さまのことをとても立派な方だと申しております。わたしの目にも、そのように映ります。
そんな海靖さまがなぜ、劉義法さまを討とうとなさるのですか?
この十日間拝見した限りでは、海靖さまがそんな風に考えることがとても信じられません。海靖さまでしたら、これは間違っているとおわかりになりそうなものですのに。
海靖さまは、父の件でわたしに謝罪までしてくださいました。それなのに、どうしてこの軍を率いていらっしゃるのですか」
梨夜が口を閉じると、海靖は梨夜からかすかに視線をそらした。
そして、しばらくじっと一点を見つめていた。
深く輝いている瞳からは、彼の思慮深いことが十二分にうかがわれる。
だが彼は、口を開くより先に、まず立ち上がったのだ。
立ち上がる拍子に、腰の剣が音を立てる。
「十日間、ずっと馬車で疲れたろう」
「え…?」
「早く食事を済ませて、ゆっくり休みなさい」
海靖はそう言うと、帳に向かって歩き出した。
外に出るというのだ。
「海靖さま!」
梨夜は慌てて後を追った。
彼が帳を中からまくると、外で待っていたらしい側近がすぐに外から帳を開けてくれる。
外に出た海靖は、天幕の周囲を回った。
「海靖さま、お答えください!」
梨夜の声は届いているはずだ。
海靖は天幕を半周し、けやきの木の前で足を止めた。
そして、その木を見上げた。
夕日の中、けやきは静かにたたずんでいる。
「海靖さま!」
梨夜が急かしても、海靖は一切答えようとしなかった。
ただ、別のことを口にした。
「おそらく、明日には劉義法らと対峙するはずだ」
「……本当に攻めるおつもりなのですか」
「そうでなければ、私はわざわざ大軍を率いて、ここまで何をしに来たのか」
確かにその通りだった。
「ですが、それならなぜ、わたしをこうして気にかけてくださるのですか?海靖さまが陛下のためにこうして軍を率いているのなら、早くわたしを捕まえて、陛下に差し出せばよろしいではございませんか」
「そうだな」
海靖はそうあっさりと答えた。
その言葉には気持ちが込められていないことはわかった。
だが、それならば本当はどういう気持ちでいるのか。
海靖が何を考えているのか、梨夜にはわからなかった。
それに、何を尋ねても、何も答えてはくれないと思われた。
もうこれ以上いても無駄だろうと、梨夜は一礼だけすると、海靖に背を向けて歩き出した。
するとすぐに海靖の側近が追ってきて、送ると言ってくれる。
振り返ると、海靖はまだけやきの下にいた。
そして、こちらをじっと見つめていた。
少し心配そうにしながら、何か言いたげに。
自分のことはこんなにいたわってくれるのに。
なぜ彼は、軍を率いてここまでやってきたのだろう。
翌日の午後、海靖の軍に緊張が走った。
川の向こうに、劉義法の軍が見えてきたのだ。
川岸の両側に、それぞれの陣が展開された。
それを梨夜は見つめながら、一人考え込んでいた。
川を渡りさえすれば、そこは劉義法の陣営だ。
開戦は明日だろうと兵士が噂をしている。
それならば、暗くなってから川を渡ろう。
陣営を外れて下流のほうに少し向かえば、一人でも渡れそうな浅瀬があった。
海靖は、劉義法の軍を目の前にしてもこれまでとまったく変わらなかった。
将軍を率いて陣営を回っている。
兵士たちに声をかけては、いたわりねぎらっている。
梨夜用の天幕が、川岸から離れたところに用意された。
日が暮れると、食事が運ばれてくる。
運んできてくれたのは、いつもの側近だった。
「戦は明日だと海靖さまはおっしゃっております。梨夜さまには、ここからお出になりませんよう」
「わかりました」
そう言いつつ梨夜は、夜になるのを待った。
夕方から夜になり空が暗くなると、周囲にはたくさんの火がたかれる。
見回りの兵士が持つたいまつも、周囲を絶え間なく行き来する。
梨夜がそっと天幕を出る姿は、多くの者に見られていた。
だが誰も見とがめない。
何か用があるのだろう、皆そう考えるからだ。
この人は何か用があって、こんな時間に一人で歩いているのだろう、と。
自分にはその詳細はわからないが、他の誰かは知っているに違いないと。
そう思われた梨夜は、誰にも声をかけられずに陣営から出ると、浅瀬に向かった。
だが、いざ渡ろうとしたところで、背後から人が駆けつける音が聞こえてきたのだ。
月明かりで照らされた人影は、数人いるようだった。
誰だろう?
自分を追ってきたのだろうか。
逃げ出そうとした梨夜の耳に、知っている声が届いた。
「梨夜!」
それは海靖の声だった。
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