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欅(けやき)の木陰にて憩う

次に海靖がやってきたのは、その日の晩のことだった。
「海靖さまがお見えでございます」
侍女が扉を開ける。

梨夜は、客人として丁寧に扱われていた。
それが海靖の指示によるものであることは、梨夜もすぐにわかった。
茶や果物が用意され、侍女たちがしきりに世話を焼いてくれようとする。
夕食も、凝ったものが用意された。
だが梨夜は、茶を少し飲んだだけで、後のものは全部断ってしまっていた。

泣き腫らした目で寝台に腰を下ろしている梨夜を、海靖はちらっとだけ見やった。
そして静かに部屋を横切ると、壁際にある椅子に座った。

梨夜もまた、彼に顔は向けなかった。
海靖の声が聞こえてくる。
「劉義法は、王渓長とは古い友人だそうだな。おまえ自身、劉義法と面識は?」
「……」
梨夜は答えなかった。
それがどうするというのか。

答えずにいると、海靖もまたそれ以上は口を開かなかった。
立ち上がる衣擦れの音がした。
「出立は明後日だ」
その言葉に、梨夜は思わず顔を上げ、彼を見やった。
彼は扉の前まで向かうと、そこで梨夜を振り返った。
「おまえも一緒に来るように」
「どうして…」
その言葉に梨夜は、半ば反射的に立ち上がった。
「どうして、わたしまで共に行かねばならないのですか?」
「来ればわかる」
「いまお聞かせください」
「都にいると危険だ。父上がおまえのことを探していることを忘れるな。それに」
海靖は言った。
「おまえが劉義法の軍にはせ参じるつもりであれば、我々と一緒に来るほうが得策ではないか?」
「……」
それはそうだった。
海靖が率いる軍は劉義法らを討つためなのだから、当然、劉義法の居る地を目指す。
一緒について行き、近くまで来たところで逃げ出して、劉義法のもとに行けばいいのだ。

国内は内戦状態だ。
女一人で戦地に向かうなど、危険極まりない。

だが、そのことを海靖自身が言うこと。
それはどういうことなのか。
まさか自分を、劉義法に会わせたいわけでもあるまいに。

考え込んでしまった梨夜を、海靖はじっと見つめた。
真っ赤な目元を見れば、ずっと泣いていたことがすぐにわかる。

梨夜の視界に、海靖がこちらに一歩踏み出したのが見えた。
だがそれだけだった。
彼はそこで足を止めると、梨夜に背を向け、来たときと同じように静かに部屋を出て行った。

出て行こうとした。

だが扉を開けた海靖の前には、皇太子がいたのだ。
「入っても?」
いいだろうか、と皇太子はそう海靖に尋ねた後、部屋に入ってきた。
海靖が後に続き、扉を閉める。

皇太子までがここにやってくるということは、自分がここにいることは確かに皇太子も承知なのだろう。
皇太子は扉の前に立ったまま梨夜に尋ねた。
「海靖から聞いただろうか?おまえには今回、一緒に行ってもらう」
梨夜はうなずくことはうなずいたが、すぐに尋ね返した。
「それはうかがいました。ですが、どうしてわたしが一緒に行かねばならないのですか?いいえ、むしろ、どうしてわたしを連れて行ってくださるのですか。わたしは、劉義法さまの軍に参じてもよいのでございますか」
「劉義法と対峙した時点で、こちらから逃げ出すつもりか」
「陛下は、父のかたきでございます。その陛下を討つとおっしゃっている劉義法さまにこそ、わたしは微力でもお力添えをいたしたいと願っております」
「……まあ、おまえがそう考えているならそれでいい」
皇太子はうなずいた。
「いずれわかる」
そして海靖を目で呼び寄せると、彼を連れてそのまま部屋から出て行ってしまった。

海靖は、今度こそ部屋を出て行った。

『いずれわかる』?
皇太子までそう言うとは。
一緒に行けば、一体何がわかるのだろうか。

だがとにかく、一緒に行こう。
劉義法のもとまで、連れて行ってもらえるも同然なのだから。

そう考えて、梨夜はふと思い出した。
『決しておまえに悪いようにはしないから』。
海靖はそう言った。
悪いようにはしない、とは、どういうことなのだろうか。

出立は早朝のことだった。
梨夜のために小さな馬車が用意されていた。
立派な甲冑を身につけた海靖は、たいそう凛々しい姿をしていた。

皇帝は、梨夜の居所を探させているが、いまだに見つからないことにひどく立腹しているそうだった。

海靖が率いる皇帝の軍勢は、粛々と進んだ。
賊を討つ官軍のはずであるが、兵士たちに勢いはない。
ほとんどの兵士が、皇帝に不満を持っているのだ。

一方で劉義法の軍は、勢いを着実に増し、日々都を目指しているという。
兵士たちは口々に、皇帝の打倒を叫んでいるという。

皇帝の軍からは、脱落者が多く出ているようであった。
みな、劉義法の側に寝返るのだ。
だが不思議なことに軍の総指揮官である海靖は、連れ戻された彼らを罰するなと命じているのだ。
部下である将軍たちも、海靖の命には従わざるを得ない。

一方、梨夜のことは誰も、王渓長の娘とは知らなかった。
海靖の側近のうちでも、ごくわずかな者だけが知っているようだった。
梨夜とて、自分から名乗ることはなかった。
王渓長の娘を、皇帝はなおも探している。
探し出して殺そうとしているのだ。

だから、なぜそんな自分を海靖がかばうのか、わからなかった。
かばっていることが皇帝の耳に入ったらどうするのか。
そして、自分のことはかばうのに、なぜ劉義法を討とうとしているのか。

戦場に、指揮官が女を連れて行くこと自体は珍しくはなかった。
だが、海靖の場合は、不思議がられていた。
数人いる皇子の中で、海靖だけは妻をめとってはいない。
周囲は次々に妻にふさわしい女性を紹介していたが、海靖は断っているのだった。

海靖の頭脳明晰ぶりは評判だった。
さらには、次代の皇帝である皇太子にかわいがられていることからも、彼に娘を嫁がせたいと考えている者は大勢いた。
そんな者たちが是非にと縁談を持ちかけても、海靖は断っているのだ。
まだ自分は未熟者で妻をめとるような立場ではないと本人は言うが、要するにそのお眼鏡にかなわないのだろうと噂されていた。
彼の心を動かす女性は、一体誰なのかと。

だからそんな彼が、戦場に女を連れて行くこと。
事情を知らない者から見たらかなりの驚きであった。

とはいえ都を出て十日間、梨夜は海靖と口をきかなかった。
話す用事がなかったということもある。
ただ、気にしてくれているのはよくわかった。
本人は来なくても、側近が頻繁に梨夜のもとに来ては、何か不自由はないかと尋ねてくれていた。
それは明らかに、海靖の指示であった。


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