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欅(けやき)の木陰にて憩う
十二(完)
だが次の瞬間、ずっと握り締めていた海靖の手が動いたような気がした。
梨夜ははっと海靖へ目を戻した。
すると、彼のまぶたがかすかに揺れ動いたのだ。
「海靖さま、海靖さま」
二度三度と呼びかける。
「海靖さま!」
何度か呼びかけると、海靖のまぶたがゆっくりと開かれた。
そして、梨夜を見上げた。
「海靖さま…」
梨夜の目にあっという間に涙があふれ、こぼれ落ちる。
梨夜が握っている海靖の手にも、涙が次々に落ちた。
「ようございました……。お父さまのところへ、いってしまわれたのかと……」
「まさか」
海靖は、小さな声だがはっきりと答えた。
「おまえ一人をのこして、どこへも行くものか」
「……」
梨夜が涙をこぼしながら笑うと、海靖もほほ笑んだ。
そして、つかまれた手をゆっくりと梨夜の顔のほうに伸ばすと、その涙をぬぐってやった。
「それに、大事なことをまだ言っていない」
「大事なこと…?」
海靖は、ゆっくりと、でもはっきりと梨夜に告げた。
「けやきの話だ」
「……」
「私の屋敷には、けやきの木はないのだが、おまえさえよければ、私の屋敷に」
そこで海靖は一旦言葉を切ったあと、梨夜を見つめて続けた。
「私の屋敷に、来てほしい。そしてずっとそばにいてほしい」
彼は言った。
「私の、妻として」
梨夜の目から再度涙があふれた。

軍勢は無事に解散したが、海靖は数日はそのまま天幕で過ごした。
梨夜はずっとその世話をした。
初めは起き上がることも出来なかったが、すぐに上半身は起こせるようになる。
そこで海靖は、都に戻ることにした。

都までは、馬で急げばさほど時間はかからない。
だが、体調のいえていない海靖のために馬車はゆっくりと進み、朝に出た馬車が都に着いたのは夕方であった。
梨夜は馬車でも隣に座り、ひたすら体調に気を配った。
海靖はつらそうなそぶりを見せることはなく、ずっと梨夜と話をしていたが、やはり体にはよくなかったのか、屋敷に着くとすぐに自室の寝台に倒れこんでしまった。

だが、意識はしっかりとしていた。
翌日には再び体を起こせるようになり、次々にやってくる見舞い客とも歓談していた。
海靖は、体調こそすぐれないものの気分はよいようで、見舞い客が途切れたときは読書をしたり、梨夜とずっと話をしたりしていた。

医者は毎日やってきて、順調に回復しているという。
海靖の顔色は次第によくなり、傷もよくなり、毒が巡ったせいですっかり弱ってしまった体調もいえてくる。
梨夜の献身的な世話もあってか、海靖は医者の見立てよりも早く快復した。

寝台から降りることが出来た海靖はまず、梨夜を連れて宮中に向かい、即位した兄の元を訪れた。
それから、今は太皇太后となった海靖の祖母のもとを訪れた。
彼女は涙を流して二人を迎え、梨夜にこれからも顔を見せに来るよう言った。

その後、梨夜はこのまままっすぐ屋敷に戻るかと思ったのだが、海靖は言ったのだ。
「王渓長の屋敷を見に行こう。おまえは都に戻ってきてから、まだ足を向けていないだろう?」
そういえばそうだった。
自分のものになったと聞いてはいたが、実際に見てはいなかった。

久しぶりに見る屋敷は、何も変わってはいなかった。
もう少し荒れているかと思ったが、梨夜がここを出た後、結局誰も足を踏み入れてはいないようであった。
庭のけやきも、元のままだった。

じっと樹上を見上げている梨夜に、海靖が何かを言いかけた。
だがその前に、梨夜は口を開いた。
「いいんです。けやきの木は他所にもたくさんございます。海靖さまのお屋敷にけやきの木がなくとも、わたしは海靖さまさえお健やかでいてくだされば、他には何も望みません」
海靖は小さく笑った。
そして自分も木を見上げた。
「あのとき…今思うと気のせいだったのか。意識を失っているとき、私は、王渓長に会ったんだ」
その言葉に梨夜は、海靖を見やった。
「謝る私に王渓長は、何度も首を振った。そして、娘の面倒を見てやってほしいと言った。
私はうなずき、妻として迎えたいと思っていると答えた。そうしたら、彼はうなずいたんだ」
「……」
「こうやって話していると、あれはすべて夢だったのかと思えてくるが……」
梨夜は首を振った。
「きっと、本当だと思います」

そう、きっと真実だ。
この方は黄泉の国できっと、父に会えたのだ。

「ずっとお話をなさっていらしたのですね。だからあんなに長い間、お目を開けなかったのですか?心配いたしました」
梨夜の言葉に海靖は笑った。
そして、その肩を抱いて歩き出した。
「帰ろう」
梨夜はうなずいた。
そう、早く帰ろう。
もうこの屋敷は、自分がいるべきところではないのだ。
今はもう別の場所にいるべきなのだ。

かけがえのない人と一緒にいられる場所に。

〜完〜


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