欅(けやき)の木陰にて憩う 十 それならば、屋敷に戻る? それが自然だろう。 だが、素直にうなずけないのはなぜだろう。 「けやきがどうかしたのか?」 けやきをじっと見上げる梨夜に、海靖が声をかけた。 「おまえはおばあさまのところにいたときも、よくけやきのそばにいたが」 「……屋敷にも、けやきの木があったんです」 それだけで、海靖は納得したようだった。 「とても大きな木でした。まだあるのでしょうか……」 「ああ、きっとあるだろう。そう簡単に切り倒したりはしないだろう。すぐに使いをやって確認させよう」 梨夜は慌てて首を振った。 「いいえ、そこまでしていただかなくても。……戻ればわかることですから」 そう、戻ればいいのだ。 でも、何かが引っかかる。 戻りたくはない何かがある。 屋敷に戻ったら、きっと海靖とはもうめったに会えないのだ。 話も出来ない。 顔も見られない。 都に戻ったら、海靖は即位する兄を支えて忙しい日々を過ごすのだろう。 きっともう自分に構っている暇はないだろう。 そしていつか、遠くない将来、素晴らしい女性を妻に迎えてしまうのだ。 そう考えた梨夜は、体が勝手に震えた。 「梨夜?」 「い、いえ、大丈夫です……」 「……」 そうだ、また皇太后のところに戻ろうか? そうすれば、きっと海靖とも会えるだろう。 だが皇太后が受け入れてくれるだろうか。 兵士たちの笑い声が風に乗って届いてくる。 これでこの軍は無事に解散だ。 彼らはそれぞれの故郷に戻る。 でも自分は、これからどうすればいいのだろう。 どうしたいのかは、明白なのに。 そう思っている梨夜の耳に、海靖の声が聞こえてきた。 「私の屋敷には、けやきの木はないのだが…」 その声に彼を見やると、海靖は、こちらを静かに見つめていた。 そして、ゆっくりと言葉を続けた。 続けようとした。 「おまえさえよければ、私の屋敷に――」 海靖がそこまで言ったとき。 彼の側近の声がしたのだ。 「海靖さま!こんなところにいらしたのですか」 振り返った海靖に、側近は告げた。 「皇太子さまがお越しでございます」 「兄上が?」 皇太子が、わざわざ都からやってきたのだった。 従者を大勢引き連れていた。 皇太子が入った天幕の周囲には、護衛の兵士がずらりと並ぶ。 皇太子は、海靖や劉義法と話をしたあと、すぐに梨夜も呼び寄せた。 「梨夜、話はすべて海靖から聞いた。つらかったろうに、ここまでよく我慢した。海靖のことも支えてくれたそうだな。私からも礼を言う」 「もったいないお言葉でございます」 「おまえの父親の件は、実に申し訳ないことをした」 梨夜は首を振った。 「そうおっしゃっていただけるだけで、父も光栄に思っていることと存じます」 皇太子はうなずいた。 「立派な娘だ」 皇太子は、すぐまた都に戻るそうだった。 実質上、彼が皇帝となった現在、彼があまり都を留守にするわけにはいかない。 都の官僚たちはいま、混乱しているともいう。 今は無理をしてやってきたのだった。 「兄上、明日になれば私どもも戻りますのに」 「どうしても一言ねぎらっておきたくて」 帰京する皇太子を、海靖らは陣営の端まで見送った。 梨夜もその中にいた。 海靖の後ろにいた梨夜に、皇太子は声をかけた。 「では梨夜も、明日は気をつけて戻ってくるように。おばあさまがおまえを大変心配している。元気そうだったと伝えておくよ」 「はい。明日必ずお伺いいたします」 皇太子の周囲は、先程から多数の兵士が囲んでいる。 海靖や劉義法らは、甲冑を身につけ剣も帯びている。 最後に皇太子は海靖に言った。 「海靖、先程も言ったが、油断はするな。父上一派の人間はすべて身柄を拘束したが、市中にはまだおまえを逆恨みする人間がいるかもしれない。明日は気をつけて帰ってくるように」 「わかりました」 皇帝の奸臣たちは、皇太子や海靖を恨んでいるのだ。 甘い汁を吸えなくなった人間たちが。 海靖がうなずいたとき。 どこからか、矢が一本、梨夜のほうに向かってきたのだ。 空気を切り裂く音がこちらに向かってくる。 矢は間違いなく梨夜に向かっている。 海靖や劉義法ではなく、自分が狙われたのだ。 それに気付いた梨夜が目を見張るしかなかったとき。 「危ない!」 梨夜は、誰かに思い切り突き飛ばされた。 衝撃を感じた次の瞬間には地面に倒れていた。 自分の体の上には何かが覆いかぶさっていて、重い。 その何かが人だと気付くのに、時間はまったくかからなかった。 その肩には矢が深々と突き刺さっていた。 甲冑の間から、矢が一本突き出ている。 それは海靖だった。 周囲が騒然となり、皇太子が兵士たちに指示を出す声が響く。 「海靖さま!」 梨夜の声に海靖はすぐにうなずき、肩をおさえて体を起こした。 「……大丈夫だったか?」 海靖の顔は真っ青だった。 上半身を起こしたものの、その体はすぐに崩れるように前のめりになった。 その様子に梨夜は、慌てて海靖の体を抱きかかえた。 そうされると海靖は、梨夜に体を預けてしまった。 「海靖さま!しっかりなさってください、海靖さま!」 「毒矢だ!早く医者を連れて来い!」 誰かが周りで叫ぶ。 梨夜の声に、海靖は反応はする。 「海靖さま!」 「私は大丈夫…おまえは…」 「わたしも大丈夫です。海靖さまのおかげで…」 「そうか…それならいい…」 梨夜の耳元で聞こえる呼吸が、またたく間に浅く小さくなっていく。 「海靖さま!」 軍に帯同していた医者が即座にやってきて、海靖をみはじめた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |