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欅(けやき)の木陰にて憩う

それならば、屋敷に戻る?
それが自然だろう。
だが、素直にうなずけないのはなぜだろう。

「けやきがどうかしたのか?」
けやきをじっと見上げる梨夜に、海靖が声をかけた。
「おまえはおばあさまのところにいたときも、よくけやきのそばにいたが」
「……屋敷にも、けやきの木があったんです」
それだけで、海靖は納得したようだった。
「とても大きな木でした。まだあるのでしょうか……」
「ああ、きっとあるだろう。そう簡単に切り倒したりはしないだろう。すぐに使いをやって確認させよう」
梨夜は慌てて首を振った。
「いいえ、そこまでしていただかなくても。……戻ればわかることですから」

そう、戻ればいいのだ。
でも、何かが引っかかる。
戻りたくはない何かがある。

屋敷に戻ったら、きっと海靖とはもうめったに会えないのだ。

話も出来ない。
顔も見られない。

都に戻ったら、海靖は即位する兄を支えて忙しい日々を過ごすのだろう。
きっともう自分に構っている暇はないだろう。
そしていつか、遠くない将来、素晴らしい女性を妻に迎えてしまうのだ。

そう考えた梨夜は、体が勝手に震えた。

「梨夜?」
「い、いえ、大丈夫です……」
「……」

そうだ、また皇太后のところに戻ろうか?
そうすれば、きっと海靖とも会えるだろう。
だが皇太后が受け入れてくれるだろうか。

兵士たちの笑い声が風に乗って届いてくる。
これでこの軍は無事に解散だ。
彼らはそれぞれの故郷に戻る。

でも自分は、これからどうすればいいのだろう。
どうしたいのかは、明白なのに。

そう思っている梨夜の耳に、海靖の声が聞こえてきた。
「私の屋敷には、けやきの木はないのだが…」
その声に彼を見やると、海靖は、こちらを静かに見つめていた。
そして、ゆっくりと言葉を続けた。
続けようとした。
「おまえさえよければ、私の屋敷に――」
海靖がそこまで言ったとき。

彼の側近の声がしたのだ。
「海靖さま!こんなところにいらしたのですか」
振り返った海靖に、側近は告げた。
「皇太子さまがお越しでございます」
「兄上が?」

皇太子が、わざわざ都からやってきたのだった。
従者を大勢引き連れていた。
皇太子が入った天幕の周囲には、護衛の兵士がずらりと並ぶ。
皇太子は、海靖や劉義法と話をしたあと、すぐに梨夜も呼び寄せた。

「梨夜、話はすべて海靖から聞いた。つらかったろうに、ここまでよく我慢した。海靖のことも支えてくれたそうだな。私からも礼を言う」
「もったいないお言葉でございます」
「おまえの父親の件は、実に申し訳ないことをした」
梨夜は首を振った。
「そうおっしゃっていただけるだけで、父も光栄に思っていることと存じます」
皇太子はうなずいた。
「立派な娘だ」

皇太子は、すぐまた都に戻るそうだった。
実質上、彼が皇帝となった現在、彼があまり都を留守にするわけにはいかない。
都の官僚たちはいま、混乱しているともいう。
今は無理をしてやってきたのだった。
「兄上、明日になれば私どもも戻りますのに」
「どうしても一言ねぎらっておきたくて」
帰京する皇太子を、海靖らは陣営の端まで見送った。
梨夜もその中にいた。
海靖の後ろにいた梨夜に、皇太子は声をかけた。
「では梨夜も、明日は気をつけて戻ってくるように。おばあさまがおまえを大変心配している。元気そうだったと伝えておくよ」
「はい。明日必ずお伺いいたします」
皇太子の周囲は、先程から多数の兵士が囲んでいる。
海靖や劉義法らは、甲冑を身につけ剣も帯びている。
最後に皇太子は海靖に言った。
「海靖、先程も言ったが、油断はするな。父上一派の人間はすべて身柄を拘束したが、市中にはまだおまえを逆恨みする人間がいるかもしれない。明日は気をつけて帰ってくるように」
「わかりました」

皇帝の奸臣たちは、皇太子や海靖を恨んでいるのだ。
甘い汁を吸えなくなった人間たちが。

海靖がうなずいたとき。

どこからか、矢が一本、梨夜のほうに向かってきたのだ。
空気を切り裂く音がこちらに向かってくる。
矢は間違いなく梨夜に向かっている。

海靖や劉義法ではなく、自分が狙われたのだ。
それに気付いた梨夜が目を見張るしかなかったとき。
「危ない!」

梨夜は、誰かに思い切り突き飛ばされた。
衝撃を感じた次の瞬間には地面に倒れていた。
自分の体の上には何かが覆いかぶさっていて、重い。
その何かが人だと気付くのに、時間はまったくかからなかった。
その肩には矢が深々と突き刺さっていた。
甲冑の間から、矢が一本突き出ている。

それは海靖だった。

周囲が騒然となり、皇太子が兵士たちに指示を出す声が響く。
「海靖さま!」
梨夜の声に海靖はすぐにうなずき、肩をおさえて体を起こした。
「……大丈夫だったか?」
海靖の顔は真っ青だった。
上半身を起こしたものの、その体はすぐに崩れるように前のめりになった。
その様子に梨夜は、慌てて海靖の体を抱きかかえた。
そうされると海靖は、梨夜に体を預けてしまった。
「海靖さま!しっかりなさってください、海靖さま!」
「毒矢だ!早く医者を連れて来い!」
誰かが周りで叫ぶ。
梨夜の声に、海靖は反応はする。
「海靖さま!」
「私は大丈夫…おまえは…」
「わたしも大丈夫です。海靖さまのおかげで…」
「そうか…それならいい…」
梨夜の耳元で聞こえる呼吸が、またたく間に浅く小さくなっていく。
「海靖さま!」
軍に帯同していた医者が即座にやってきて、海靖をみはじめた。


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