墨の香りの宝物 八 「宝物ね…」 裂こうとした紙は、端がわずかに破れているだけだった。 鴻秀はそれを机の上に戻すと、少しついてしまったしわを手できれいに押さえた。 そしてそれを、静夏に差し出したのだ。 「本当にこれでいいのか?」 静夏はぱっと顔を輝かせた。 そして、一つうなずいた。 差し出された紙を、静夏はそっと受け取った。 「ありがとうございます…」 そして、改めてその文字をしげしげと見つめた。 見ていると、その墨跡に吸い込まれてしまいそうになる。 流麗な墨の流れ。 見ているだけで心が満たされるようで、静夏は、一人満足げにうなずいた。 そんな静夏を、鴻秀はじっと見つめていた。 だがそこで目を伏せると、ふと立ち上がった。 かと思うと、急に静夏を抱き寄せたのだ。 腕の中で静夏は初め、目を丸くした。 背中に、鴻秀の手の感触が伝わってくる。 動悸が激しくなり、何も考えられなくなる。 鴻秀の着ている服からは墨の香りがした。 それだけは静夏もわかった。 自分が今、かぐわしい墨の香りに包まれていることは。 鴻秀はじっと、静夏を抱き締めていた。 何も言わずにただじっと。 そしてやがて、そっと腕を解いた。 腕の中から解放されると、静夏はそこで初めて顔が赤くなる。 そんな静夏に、鴻秀は静かに声をかけた。 いつものように静かな口調で。 「送っていくから、もう戻りなさい」 静夏は小さくうなずいた。 廊下を歩き、廻廊を渡り、庭を横切る。 見回りの衛兵が持つたいまつが、暗い植え込みの向こうを行ったり来たりする。 時々、話し声が届いてくる。 夜風が頬をなでて去る。 鴻秀はずっと無言だった。 ただ、静夏がちゃんとついてきているかだけを時々確認した。 鴻秀が話さないこともあり、静夏も無言だった。 だがそれは決して、重苦しい沈黙ではなかった。 むしろ、このままずっと一緒にいたいと思えるほどだった。 ずっと、一緒に歩いていたいと。 部屋が近づいたところで、鴻秀は足を止めた。 そして静夏を振り返った。 静夏の手の中には、先程鴻秀からもらった紙が握られている。 「やはりそれは、少し申し訳ないな」 「何がですか?」 静夏はびっくりしてそう尋ねた。 「一度捨てようとしたものだし」 「いいえ、そんな…」 静夏は思わず、取られまいとばかりに紙をしっかりつかんだ。 その様子に鴻秀は笑う。 「そんなにしなくとも」 笑われたと知り、静夏は恥ずかしくついうつむいてしまう。 「え、あの、でも…」 鴻秀の手が伸びてくる。 そしてその手はそっと、静夏の髪をなでた。 「……おまえが気に入ってくれるならいいか」 鴻秀は小さな声でつぶやいた。 「そんなに気に入ってくれるのなら」 鴻秀の顔には、小さな笑みが浮かんでいる。 穏やかな笑みが。 「鴻秀さまはご立派です。とてもご立派です。わたしはいつもそう思っています。鴻秀さまご本人もそうですし、このお手だって」 静夏は紙を、胸の前で抱き締めるようにした。 「……宝物です」 「……」 そのとき、話し声が届いたのか、侍女が姿を見せた。 「静夏さま?…まあ鴻秀さままで!」 鴻秀に気付いた侍女は驚きの表情を浮かべた。 鴻秀の手が静夏からそっと離れた。 「え、ええ、送っていただいたんです。鴻秀さま、もうここで大丈夫です」 鴻秀はうなずいた。 そして、もう何も言わずに静夏に背を向けるといま来た道を戻っていこうとした。 「あ…鴻秀さま」 だが静夏が声をかけると、すぐに足を止め振り返った。 「お気をつけて」 「……」 鴻秀は笑った。 そして、今度こそ静かに戻っていった。 「まあ、鴻秀さまがわざわざお送りくださるなんて」 侍女がまだ驚いたように言う。 「鴻秀さまもずいぶんと静夏さまのことをお気に召されたようですわね。あ」 そう言ってから、侍女は慌てたように言葉を添えた。 「変な意味ではございません。ただ、鴻秀さまが他人にご好意を示されるのは珍しいなと。ご立派すぎるせいでそう感じるのか、あるいはご自分でお立場を自覚なさってのことなのか、他人をあまり寄せ付けないところがおありの方なのに」 本当に。 部屋に戻り、鴻秀の字を改めて見つめた静夏は、つい一人で赤くなった。 抱き締められた拍子に、紙のしわが増えたようなのだ。 鴻秀の腕のぬくもりが思い出される。 髪をなでてくれた優しい手つき。 それにしても、と静夏は改めてその字を見やった。 とても美しい立派な字だ。 先の皇帝の字は知らないが、おそらく、誰と比べてもきっと遜色はないだろうに。 誰と比べるまでもなく、鴻秀は立派な人物なのに。 この国の皇帝として。 そして、一人の人間として。 [*前へ][次へ#] [戻る] |