墨の香りの宝物
七
そして静夏は、よく鴻秀に呼ばれるようになった。
用件は決まっている。
芳紗のことだ。
静夏が夜、芳紗が寝入るのを見届けた頃、鴻秀は静夏を呼んだ。
別に変わったことを話すわけではない。
言ってみれば、一日の芳紗の様子を報告するだけだ。
だからすぐに話は終わる。
それでも静夏は、いやな顔一つせず足を運んだ。
いやむしろ、いさんで足を運んだ。
呼ばれない日というのは鴻秀に用があるときだったが、呼ばれないと静夏はがっかりした。
四角い卓に向かっている鴻秀の傍らで話をすると、鴻秀はそれをじっと聞いてくれる。
そして時には笑顔を浮かべる。
芳紗のこと以外も話すようになるのに、時間はかからなかった。
居る時間が長くなるのも。
日常の他愛のないことから古今の歴史や文学のことまで、静夏は鴻秀と話していると時間を忘れるほどだった。
そして話すうちに静夏は、鴻秀がちまたの噂以上に実に立派な人物であることをすぐに知ることが出来た。
聡明で思慮深く、また、偉ぶるところがまったくない。
口数は多いほうではないが、その分、一言一言がとても丁寧で誠実だ。
一緒にいると心が安らぐ。
芳紗と一緒に過ごすことも楽しかったが、鴻秀と一緒にいるときもまた、違った意味で楽しかった。
その晩、静夏が部屋に向かうと、鴻秀は窓辺にある机に向かっていたところだった。
何か書き物をしていたところだった。
墨の優しい香りがただよっている。
その美しい字を見た静夏は、思わずため息をついた。
鴻秀が筆を休めた。
「どうした?」
「とてもおきれいな手跡だと思いまして」
「能書家のおまえにほめられても」
鴻秀は苦笑する。
「いいえ、本当に素晴らしいと思います」
静夏が真顔でそう言うと、鴻秀は笑顔のまま机上に目を戻した。
そして、筆を置いてしまうと、不意につぶやいたのだ。
「兄上が、字がうまかったんだ」
「お兄さま…?」
突然兄の話題が出て、静夏はどうかしたのかと思った。
鴻秀は続けた。
「それは上手で…いや、今思うに、おまえのほうが格段に上なのだが…当然、周囲はみな兄上をほめた。字くらいなら、兄上に勝てるかもしれない。私はそう考えて熱心に練習した。だが、どんなに練習しても兄上よりは上手にならなかった。誰もそう言ってはくれなかった。だが、あるとき気付いたんだ。自分は決して、兄上よりも上手と認めてもらえることはないんだと」
「……」
「私は何をしても兄上にはかなわなかった。実際、どう見ても私のほうが上であっても、常に兄上のほうが上とされた。仕方のないことだ。兄上は世継ぎだが、私は所詮二番目だ。別にそれでもいいのだと思うようにした。そういうものなのだから、一々比較して不満に思っても仕方がないと。自分は、自分なりに努力すればよいのだと。そう考えるようにすると、気持ちは楽になった。だが…」
鴻秀はそこで笑みを浮かべた。
そして、言ったのだ。
「私はきっと、兄上が嫌いだったんだ」
その笑みはいつもとは違い、ずいぶんと自嘲的なものだった。
「兄上さえいなければ…きっと私は何度もそう思ったんだ。思っていないふりをして、自分をごまかしていたんだ。実際、兄上が亡くなったとき、私は、自分を押さえつけていたものが消えたような気がした。それなのに」
鴻秀は目を閉じると、顔をわずかにしかめ、つぶやくように続けた。
「兄上は子を残した」
「……」
「あの人は、死んでからも私を悩ませる。生きているときは私の上に立ち、死んでからもなお、私に難問を突きつける。兄上は私に、どうしろというのか。どうすればいいのか。考えても考えてもわからない」
だからだったのだ。
玉英のおなかの子に位を譲れという彼女たちの希望に、鴻秀が何も答えないでいるのは。
兄の子に位を譲るべきか否か。
常に自分の上に立っていた兄。
自分を押さえつけていた兄。
そんな兄がいなくなり、ようやく息がつけると思ったら、その子どもが存在するなんて。
兄の子に位を譲るというのはきっと、鴻秀にとり、兄から譲られた位をまた兄の手に返すような思いなのだろう。
兄がいなくなり、位を譲られたと思ったのはかりそめで、結局今もなお兄は自分の上に君臨しているのだと。
自分は一生、兄を見上げて生きなければならないのだと。
兄の下位に甘んじなければならないのだと。
「鴻秀さま」
静夏は言った。
「鴻秀さまの字は、とてもご立派です。私はお兄さまの手跡は拝見したことがございませんが、それでもきっと、お兄さまよりもお上手です」
「……」
鴻秀は小さく吐息を漏らした。
そして、今書いていた机上の紙を手に取りあげた。
かと思うと、それを二つに裂こうとしたのだ。
静夏は考えるより先に手を伸ばしていた。
手を伸ばし、鴻秀の手を押さえた。
「鴻秀さま!」
その静夏の行動は、鴻秀にとり相当思いがけないものであったらしい。
驚いたように静夏を見やった。
その視線に静夏も、はっと我に返った。
「も、申し訳ございません」
そしてそっと手を引っ込めた。
「どうして裂いてしまうのですか?お上手ですのに…」
「……いや、これは反古だから」
「そんな…。いただいて、宝物にしたいくらいですのに」
「宝物?」
鴻秀は笑った。
その笑顔はいつもの鴻秀のもので、静夏は内心安堵した。
「芳紗と同じことを言う」
確かにそうだった。
それに気付いた静夏は、つい頬を赤らめた。
でも、本当にそう思うのだ。
大切に手元に置いておきたいと。
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