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墨の香りの宝物

その日の晩、静夏は鴻秀に呼ばれた。
芳紗のことで話があるとのことだった。
だが行ってみるとそこには、玉英がいたのだ。
昨夜見かけた玉英付きの侍女が、部屋の周囲に立っているのだ。
静夏を案内してくれた鴻秀の側近が、その様子に驚いている。
ということは、彼は玉英が来ることを知らなかったのだ。
「玉英さまがお越しなのですか?」
側近の質問に侍女たちがうなずく。
「また急なことで…」
「大事なご用がおありなのです」
侍女がぴしゃりと言い切る。
困った顔になる側近に、静夏は声をかけた。
「わたしはお待ちいたしますから」
するとちょうど話が終わったのか、扉が開いて部屋の中から玉英が姿を現したのだ。
だが彼女は静夏がいることに気付くと、まなじりをつり上げた。
「まあ。こんな時間にここへ来るなんて、一体何の用?ずうずうしいというか、はしたないというか」
静夏はそれに特に答えず聞き流すと、ただ玉英に対して一礼した。
「ゆうべ言い渡したでしょう、ここはあなたなんかの来るところじゃないわ」
「義姉上」
玉英の背後から、鴻秀の声がした。
「彼女は私が呼んだんです。芳紗の件で話があって」
「鴻秀さま、何度も申しましたでしょう。わざわざ鴻秀さまがこんな娘に関わらなくとも、芳紗の師でしたら立派な人物が掃いて捨てるほどおりますのに。おっしゃってくださればすぐに手配いたします」
「ありがとうございます。ではお足元には気をつけてお戻りください。おやすみなさいませ」
そういう鴻秀の言葉には、まったく気持ちがこめられていなかった。
それだけを一息に言ったあと、鴻秀は静夏のほうに腕を伸ばしてきた。
そして背中を押しながら部屋に入れると、さっさと扉をしめてしまった。
「んまあ!」
外で玉英の腹立たしげな声がした。
「鴻秀さま、よろしいのですか?玉英さまはまだ何かお話がおありだったのでは」
「いや。向こうにはあってもこちらにはないから」
鴻秀は言い切ると、次いで静夏に言った。
「義姉がすまないことを。昨夜もずいぶんとひどいことを言ったそうだな」
やはり耳に届いていたのだ。
静夏は慌てて首を振った。
「いいえ、気にしておりませんから。気にしなければ気になりません。あ、でも」
でも、に鴻秀は、その続きを気にしたようだった。
「玉英さまに対して、失礼ではありますが…」
「ああ、それこそそんなこと気にするな。そう、あの人のことは一々気にしなくていい。あの人はああなんだ」
鴻秀はため息をつきながら、四角い卓に向かって腰を下ろした。
「うっとうしいだろうが、気にしないでくれ」
静夏はうなずいたが、内心驚いていた。
そう言うということは、鴻秀も相当、玉英をうっとうしく思っているのだと思われたからだ。
兄の后だった人物なのに。
もっとも、彼女が義姉でさえなかったら、いっそきっぱりと拒絶できるのだろう。
と考えた静夏だったが、ふと気付いた。

いや、たとえ義姉だとしても、鴻秀は皇帝なのだ。
この国で彼以上に尊い人間はいないのだ。
その気になれば、きつく言い渡して以後遠ざけることもできそうなものだけれど。
やはり、兄の后だったということで気をつかっているのだと思われた。
それをいいことに玉英は、鴻秀に強く言っているのだろう。

「ああそれで、今は芳紗の件だ。あんなことを言うようになるなんて」
鴻秀は、卓上に置いた両の手を組んだ。
あんなこととは、芳紗が今日の昼間、戻っていく兄に対して言った言葉だと思われた。
「無理をしてまで来なくてもいいなんて。ここまでおまえを慕うようになるなんて、うれしい驚きだ。一人にしておくのが不憫でならなかったのだが、ようやく安心した。体調も落ち着いてきたようだし」
「やはり芳紗さまのお体が優れなかったのは、お寂しかったのが原因では…。以前はそうでもなかったということですが、それは、鴻秀さまが頻繁にいらしてくださった頃のことでは」
「そう。まだ兄上がご健在の頃はしょっちゅう会いに行くことができたからな。確かにあの頃は庭を駆け回っていた」
今日、鴻秀が戻ってから、静夏は芳紗と一緒に庭へ出ていた。
芳紗が出てみたいと言ったのだ。
その話を静夏がする間、鴻秀は卓上の自分の手を見つめていた。
「今日、あれからお庭へ出てみたんです。駆け回りこそはしませんでしたが、しばらくお散歩をいたしました。お花がきれい、緑がきれいとずっとご機嫌でいらして。お部屋に戻ってからも特に疲れたご様子もなく、お食事もよく召し上がって、そしていつもどおりお休みになりました。もう少しすればきっと、元のようにお元気になりますでしょう」
芳紗のことを話していると、つい静夏の顔はほころんでしまう。
静夏が話し終えると、鴻秀もまた小さくほほ笑んだ。
「そうだな…」
そのとき、先程の側近がやってきた。
「陛下、お話中申し訳ございません。火急の用を持った者が参上いたしまして、至急陛下にお目にかかりたいと申しております」
「ああ、わかった。いまそちらに行くから」
「では鴻秀さま、わたしはこれで失礼いたします」
鴻秀はうなずいた。そして立ち上がった。
だがそれから、わざわざ静夏のために扉を開けてくれたのだ。
「気をつけて」
静かな言葉には、先程とは違い、気持ちがこめられていた。
静夏はうなずいた。
歩き出してから一旦振り返ると、鴻秀がまだ扉のところにたたずんでいるのが見える。
扉の脇にたたずみ、じっとこちらを見つめている。
静夏はきちんと振り返って、改めてお辞儀をした。
すると鴻秀は小さく笑ったのだ。

妹に対してしか笑わなかった鴻秀が、自分に笑顔を向けてくれたこと。
自分に笑顔を見せてくれたこと。

それを思った静夏はなんだか、胸があたたかくなった。

次の日からも、静夏は毎日ずっと芳紗とともに過ごした。
初めは一日中部屋の中で過ごしていた彼女だったが、元気になるにつれて、天気のよい日は一日一度は必ず庭に出るようになる。
庭にいるときに鴻秀がやってくることもある。
そうなると芳紗はいつも以上にはしゃいで、兄と一緒に庭を散歩したがった。
もちろん、静夏も一緒だった。
兄の腕にしがみつくようにして一緒に歩く芳紗を見ていると、かわいくて仕方がない。
鴻秀もそんな芳紗を見て笑う。
そして芳紗に向けた笑顔を、そのまま静夏にも向けてくれる。
それは静夏にとって、とてもうれしいことだった。

書の練習をしているときに鴻秀がやってくると、芳紗は兄にも何か一筆書いてもらいたがった。
それに鴻秀が応じて詩なり文なりを書き上げると、芳紗はそれをまじまじと見つめる。
「お兄さまは本当にお上手ね。どうすればこんなに上手に書けるのかしら」
「練習しなさい」
「お兄さまはどのくらい練習したの?」
「たくさん練習したさ。今でも毎日練習だよ」
「そうなの?」
ふうんとうなずいたあと、芳紗は言った。
「これは宝物にするわ」
「宝物?」
芳紗はうれしそうにうなずく。
「うん」
大好きな兄の書いた字は、芳紗にとり確かに大切な宝物だろう。
それを大事そうに文箱に収める芳紗を見て、静夏は少しうらやましく思った。

自分も鴻秀の字をいつも見ていたいと。


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