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墨の香りの宝物

次の日の午後、静夏が芳紗に書の手ほどきをしていると、鴻秀がやってきた。
「お兄さま!」
机に向かって筆をとっていた芳紗が、扉に向き直って弾んだ声を上げる。
だがそのはずみで、墨がその顔に散ってしまった。
「あっ」
「あらあら」
静夏はあわてて手で墨をぬぐってやった。
墨はすぐに静夏の手に移る。
その様子に鴻秀は笑った。
「落ち着きなさい芳紗」
「落ち着いていられないわよ。だってお兄さまが見えたんだもん」
芳紗のすぐ隣にいた静夏は、位置を鴻秀に譲る。
代わって芳紗の脇に立った鴻秀は、机の上を見てほうと感嘆の声を上げた。
そこにあったのは、静夏の書いた文字だった。
鴻秀は、紙を押さえていた文鎮をわざわざ外し、両手でそれを取り上げた。
「やはり大した腕前だ」
「とんでもない。こんな字をお見せして、お恥ずかしいことでございます」
「ううん、先生の字はとてもお上手よ。わたしも先生みたいに書けるようになりたいわ」
妹の言葉にうなずいた鴻秀は、そこで静夏に言った。
「いま衛呈孝が来ている。おまえの様子を心配しているようだったから連れてきたんだ。今のうちに会ってきなさい」
自分が芳紗の相手をしている間に会ってこいというのだ。
芳紗も、兄がいれば大丈夫だろう。
それならと静夏は言葉に甘えることにした。

衛呈孝は別室にいた。
そして入ってきた静夏を見て安心したように笑った。
「ああ静夏、噂は耳に入ってきているよ。お気に召されているようでなによりだ。それより」
椅子に腰掛けていた衛呈孝は、静夏にそばに近づくよう手招きをした。
「どうかなさいましたか?」
衛呈孝は声をひそめた。
「玉英さまが、昨夜急におまえのもとを訪れたとか」
「どうしてそれを?」
「噂というものはすぐに伝わる。それに今しがた」
衛呈孝は言った。
「鴻秀さまからもお話があって」
「鴻秀さまから?では鴻秀さまもそのことをご存じなのですか」
「ああ」
そうだったのか。
「ひどい言われようだったそうだな」
「大丈夫です、気にしておりませんから」
「ならよいが…」
そこで衛呈孝は、不愉快そうに顔をしかめた。
「あの御仁もな。上の娘をめあわせただけで満足すればよいものを、今度は鴻秀さまに下の娘までめあわせようとやっきになって。玉英さまもそれに同調して、義姉というお立場を利用して鴻秀さまにしょっちゅう直談判なさっている」
あの御仁、と衛呈孝が言うのは、玉英の父親である温士潮(おん・しちょう)のことだと思われた。
「玉英さまは、まるでもう決定だと言わんばかりでいらっしゃいましたが、本当はまだ…」
「ああ、鴻秀さまは承知しておられない。そればかりか」
衛呈孝は言った。
「玉英さまのおなかのお子様。あのお子様が男子だったら位を譲れと、温士潮は鴻秀さまに迫っているのだ」
「玉英さまもそうおっしゃっているとか…」
衛呈孝は不満そうにうなずく。
「ですがそのお話、鴻秀さまがご自分でそうおっしゃったという噂があるようですが、あれは…?ご自分から、男のお子様だったら位を譲るとおっしゃったとかなんとか」
衛呈孝はそれにはきっぱりと首を振った。
「違う。鴻秀さまはその件に関し何もおっしゃってはいない。それは温士潮の流した噂だ」
「そうでしたか…」
「なぜいまさら、鴻秀さまが位を譲らねばならんのだ。確かに兄上様がご健在であれば、そのお子が跡を継ぐのは当然だ。だがもう兄上様はご崩御なさってしまい、位は鴻秀さまに移ったのだ。鴻秀さまの跡を継ぐとしたら、鴻秀さまのお子だ。いまさら兄上様のお子に戻せというのがわからん。そもそも、女子かもしれないのに」
憤慨しながらそう言っていた衛呈孝が、そこでふと首をかしげた。
「それにしても、鴻秀さまはそのことをどうお考えなのか。なぜその件について何もおっしゃらないのだろうか。周りがかまびすしいのは百も承知しておられるはずなのに。玉英さまの妹の件はきっぱりお断りなさっているのになあ」

何も言わないということは、何か考えがあるのだろうか。
いや、考えがあるならそれを言っているはずだろう。
何も言わないということは、本人も決めかねているということなのだろうか。

男子だったら譲るのか。
男子でも譲らないのか。

鴻秀がはっきり言わない限り、いつまでも周りは騒ぐだろう。

衛呈孝のところを辞した静夏は、再度芳紗のもとに戻った。
芳紗はまだ兄と一緒にいて、兄に見てもらいながら筆を握っていた。
「あっ、先生。お話はもう終わったの?」
「はい」
「ねえねえ、見てみて。お兄さまの字もとても上手じゃない?」
芳紗が静夏に、一枚の紙を見せる。
それは静夏が初めて見る、鴻秀の手跡だった。

鴻秀は、自分の字をとてもほめてくれた。
だがなかなかどうして、鴻秀の字も非常に美しかった。
芯の通ったしっかりとした線の中に、柔らかさも見え隠れする。
縦横無尽に筆を運んだかと思えば、要所でぴたりと止める。

いつまでも見ていたくなるような手跡だった。
「ねえねえ、とってもお上手でしょう?」
「ええ」
静夏は心底から同意した。
「やはりわたしなどより、鴻秀さまの字をお手本になさったほうがよろしいのではないでしょうか」
鴻秀は首を振る。
「おまえのほうがはるかに上手だから。一目見て感心した」
「いいえ、そんなことは。芳紗さま、やはりお兄さまの字をお手本になさったほうが」
芳紗はにこにこと笑う。
「うーん、どっちにしようかしら?」
「先生に習いなさい。じゃあ私はそろそろ行かなくては」
「うん」
兄が戻るのを、芳紗は落ち着いた様子で見送る。
それに鴻秀もまた、安心したようにほほ笑む。
さらに今日、芳紗は言ったのだ。
「あのねお兄さま。お忙しかったら、無理をしてまでわたしのところに来なくても大丈夫よ。本当に何かあったら呼ぶから。わたしは、先生がいてくれるから大丈夫」
その言葉に鴻秀は、本気で驚いたようだった。

鴻秀を見送ったあと、静夏は机の上に目を戻した。
そこには鴻秀の字がある。
静夏はそれをしばらく見つめていた。
見つめていると、吸い込まれそうになる。
あまりにじっと見ているので、芳紗が不思議がるほどだった。


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あきゅろす。
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