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墨の香りの宝物

静夏はその日以降、宮中で暮らすことになった。
名目は芳紗の師ということだったが、初めのうちは侍女兼話し相手といった感じだった。
朝から晩まで芳紗は静夏を離さなかった。
忙しくていつやってくるかわからない兄とは違い、お気に入りの静夏はいつでも自分のそばにいてくれる。
そのことは芳紗にずいぶんと安心感を与えたようだった。
体調が落ち着いてきたのだ。
食欲も増し、一日中寝たきりということも少なくなり、寝台から起きて活動する日が増えた。
そして芳紗はやがて、静夏がやってきた当初のきっかけを思い出したようで、勉強を見てほしいと自分から言い出したのだ。

いざ学び始めると、それは芳紗にとり大変楽しいことのようだった。
これまでの芳紗は、いつやってくるかわからない鴻秀をただじっと待つことしか楽しみがなかったようだったが、今は毎日静夏が新しいことを教えてくれる。
目を輝かせて教えを受けている。
そんな芳紗を見ていることは、静夏にとっても楽しいことだった。

鴻秀は、なるべく毎日顔を出すようにしているようだったが、そうもいかない日も多かった。
鴻秀がやってくると、静夏は席をはずすようにしていた。
芳紗は大好きな兄と二人で話していたいだろうと思ったのだ。
鴻秀のほうも、かわいい妹と二人で過ごしたいだろうと。
だがすぐに芳紗は、先生もいてと言うようになったのだ。
それなので静夏は二人の様子をそばで見つめていた。

この兄妹は実に仲がよかった。
鴻秀は芳紗のことを、他人になかなか心を開かないと言っていたが、彼自身もまたそういうところがあるようだった。
笑顔を見せるのは妹に対してだけなのだ。
妹といるときが唯一、鴻秀にとっても心が安らぐひとときのようだった。
芳紗の話に耳を傾け、笑顔を浮かべて言葉を交わす。
髪をなでる優しげな手つき。
仲のよい兄妹の様子を見つめていることは、静夏にとっても楽しい時間だった。
見ているこちらまであたたかい気持ちになれる。

だが、すぐに気付いた。

鴻秀の上にも兄がいたではないか。
先の皇帝だ。
この兄もまた二人とは母親が違うそうだったが、その兄の話は、芳紗の口から出てこない。
芳紗づきの侍女に聞いてみたところ、上の兄は芳紗のことにはまったく興味がなかったそうだった。
「芳紗さまはお会いになったことさえあるかどうか…。芳紗さまのことをお気にかけていらしたのは鴻秀さまだけなんです」
「鴻秀さまと先の陛下との仲は、疎遠だったのですか?」
その問いに侍女は、二人のことを教えてくれた。
「疎遠というほどのことはなかったように思います。ただ、特にお親しいというわけでもないようでした。お年は近くていらっしゃったのですが、ご性格が違っていらしたせいもあるのでしょうか、特に仲良くなさっていたという話は聞いたことがございません。ですが、だからといって仲が悪いという極端なこともなかったかと。
鴻秀さまは物静かな方ですが、先の陛下はとにかく明るい方でした。華やかなことがとてもお好きで、周囲は常にお賑やかでした。だからなんでしょうか、お年の離れた妹君のことまでお気が回らなかったのかもしれません」
それが要するに、興味がなかったということなのだろう。
「ただもっとも鴻秀さまは、そんなお兄さまをごく普通に敬っていらっしゃるようでした。敬い、ご自分は弟君として常に一歩引いていらっしゃいました。ああ、でも」
侍女は声をひそめた。
「鴻秀さまは、玉英さまのことはあまりお好きではないようですわね。これだけはわかります」
「玉英さま?」
「先の陛下のお后様…鴻秀さまの義理のお姉さまにあたられる方です。まあもっとも、あれだけ毎日同じことを言われては、誰でもうんざりしますわよ。ご実家のお父さまと一緒になって、ご自分のおなかのお子様が男子だったらその子に位を譲るようにと鴻秀さまにおっしゃっているんです。それだけではなく、今度は玉英さまの妹君を鴻秀さまにめあわせようとなさっているんですよ」
その話だったら静夏も知っていた。
ちまたでは噂といわれていたが、噂ではなく本当のことなのだ。
玉英も宮中に住んでいるそうだが、広い宮中では会う機会もまったくない。

そう思っていた晩のこと。
芳紗の前を下がった静夏は、自分の部屋に戻ってまずは寝台の端に腰を下ろした。
するとすぐに侍女の声がしたのだ。
「静夏さま、静夏さま、あの…」
いつになく慌てたような声に、どうかしたのかと静夏が立ち上がったとき、扉は外から勝手に開いていた。
そしてそこには、見たことのない女性が立っていたのだ。
複数の侍女を引き連れている。

華やかな衣装に髪飾り。
美人ではあるが、ややきつい顔立ちをしている。
口元にはつややかな紅。
姿を一目見て、懐妊しているとわかる。
今この宮中で懐妊中といえば、玉英だろう。
この女性が、鴻秀の義理の姉なのだ。
でも、どうしてここに来るのだろう?
「あなたが柳静夏?」
理由はわからなかったが、ひとまず静夏は丁寧に挨拶をした。
「はい。初めてお目にかかります。まずはどうぞおかけくださいませ」
「結構。今はあなたの顔を見に来ただけなの。どんな娘なのかと思って」
突然の、あまりにぶしつけなその言い方に、静夏は思わず彼女をまじまじと見つめた。
「鴻秀さまが、芳紗のためにわざわざ呼び寄せたと聞いたわ。そうなの?書の腕前を見込まれたって」
「はい。もったいなくもわたしなどにお目を留めていただきまして」
「ふうん…」
玉英は、上から下まで静夏を眺めやった。
「学者風情の娘が。どうやって鴻秀さまに取り入ったのか」
「え?」
「あなたは芳紗に仕えているのでしょう?鴻秀さまには必要以上に近づかないように」
「……」
「鴻秀さまはいずれ、私の妹をめとられるのだから。まあ、学者風情の娘が一人おそばにいたって別に構わないといえば構わないのだけど。ただ、やはり目ざわりだから」
「……」
「あなたは自分の立場を十分自覚するように。そもそも、十人並みのその容姿で鴻秀さまに取り入ろうなんて甘いわ」
「……」
この人は、何を言っているのだろうか?
静夏はあっけにとられてしまった。
父親のことを学者風情呼ばわりされることは腹立たしいが、他のことはあまりに唐突のことで驚くより他ない。
反論する気も起こらなかった静夏は、何も言わなかった。
ただ一々うなずいていると、玉英は、言いたいことだけ言ってさっさと戻っていった。

彼女はどうも誤解をしているらしい。
鴻秀に近づくなと言ったが、別に近づいてなどいないし、そういうつもりもない。
自分に下心がある人間は、他人も下心を持っていると思いがちだとは思うけれど。

ただ、彼女の妹が鴻秀に嫁ぐという話は、決定なのだろうか。
まるで決まっているような言い方だったが。

「静夏さま、念のため鴻秀さまにご報告しておきましょうか」
そばにいた芳紗づきの侍女が、困ったように静夏に尋ねた。
「玉英さまは少しお気が強くていらして…そのせいで、おそばの侍女が何人も辞めたと聞いています。それに今は、お忙しい鴻秀さまのもとにもしょっちゅうお顔を出されては、ご自分の妹君をめとられるようお話なさっているそうです」
「では、そのお話はまだ決まったわけではないのですか?」
侍女はうなずく。
「そういうお話は耳にしておりません」
「そうですか…。鴻秀さまへのご報告は、別にいらないでしょう」
「ですが、今のはあまりに静夏さまに対し失礼では…。お父様のことまで、あんな言い方を」
「大丈夫です。わたしが聞き流せばよいことですから」
静夏がまったく気にしていないように笑うと、侍女もほっとしたように笑った。

決まっていないのに、決まったかのような言い方。
あの調子できっと、おなかの子に位を譲れともせまっているのだろう。


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