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墨の香りの宝物

兄がいなくなり、二人きりになると、芳紗はうなだれた。
そして、弱々しい口調で静夏に言った。
「ごめんなさい、わたし、先生はいらないの。せっかくお兄さまが連れてきてくださったけど…」
静夏はやはりと思った。
「芳紗さま、ではわたしはもう戻ります。お気になさらないでくださいませ。ただ最後に、芳紗さま」
「なに…?」
「泣きたいときは、泣いてもよろしいのですよ」
「え?」
「我慢なさる必要はございません。我慢はきっと、芳紗さまのお体にさわります」
「……」
芳紗は、そう言う静夏をじっと見つめた。
「お兄さまのことがお好きなのですね。でも、お兄さまは毎日お忙しいのでございましょう。なかなかご一緒にいられなくて悲しいことでしょう。そういうときは、泣いてもよろしいのですよ」
「……そうなの」
芳紗の目に、見る見るうちに涙が浮かんだ。
「お兄さま、即位なさってから毎日とてもお忙しいの。ううん、その前からお忙しそうだったけど、特にそうなの。前はしょっちゅうここに来てくれたのに、今はなかなか来てくれないし、来てもすぐに今みたいに行っちゃうし…。でも、お忙しいのだからしかたがないの」
芳紗は、せきを切ったように涙をこぼし始めた。
静夏はそばにそっと近づくと、床にひざを着き、芳紗の髪をなでてやった。
「毎日よく我慢なさってますね。でも、涙は我慢なさらなくてもよろしいのですよ」
「わたしが泣くと、みんな心配するから…」
おそらくは、一人で泣いているのだと思われた。
これでは気分も晴れないだろうし、気分が晴れなければ体調だってよくはなりにくいだろう。
いじらしい皇女のために、静夏は何とかしてやりたいと思った。
そう思いながら髪をなでていると、芳紗は泣きじゃくりながら静夏に訴えたのだ。
「ごめんなさい、やっぱりもう少しここにいて」
「芳紗さまのおっしゃるとおりにいたしますよ」
きっとこの皇女は、寂しいのだ。
大好きな兄と一緒にいたいのに、いられないことが。

芳紗はそれからかなりの時間泣き続けた。
最後は涙も枯れ果てて、彼女自身もぐったりしてしまうほどだった。
だが、気分は多少晴れたようだった。
芳紗は赤い目でじっと静夏を見つめると言ったのだ。
「あのね?」
「なんでしょう?」
「先生は、まだここにいても大丈夫?」
「ええ」
静夏はうなずいた。
「わたしはお兄さまのように忙しくはございません。芳紗さまのお望みのままにおそばにおりますよ」
「本当?」
「ええ」
「このままお話をしていて平気?」
と、芳紗が話し出したのは、兄のことだった。

鴻秀がどんなに素晴らしいか、立派か、そして自分に優しいか、芳紗は静夏に語って聞かせた。
誰かに兄を自慢したいようだった。
静夏がうなずきながら聞いていると、それだけで芳紗は満足そうに笑う。

芳紗が求めているのは学問の師ではなく、衛呈孝が言ったようにまずは話し相手のようだった。
そして、自分の気持ちを汲んでくれ、話を聞いてくれる静夏は、そのお眼鏡にかなったようだった。
静夏もまた、このいじらしい皇女がすぐにかわいくて仕方がなくなった。
その日は結局芳紗は静夏を離そうとはせず、夕食まで一緒に食べ、そして寝る直前まで一緒だった。

芳紗が寝入ったのを確認した静夏は、ほっとしながら部屋を出た。
すぐに侍女がやってくる。
「静夏さま、陛下がお呼びでございます」

あれから鴻秀は結局芳紗のもとへは来なかった。
鴻秀の私室に向かうと、彼は窓辺に立ち、暗い庭を目に映していた。
四角い卓上には青磁の湯飲みが二つ並んでいる。
一つは飲みさしだが、もう一つには手はつけられていない。
つい今まで、誰かがここに来ていたらしい。
「衛呈孝は安心しながら帰っていった」
鴻秀はそう言いながら歩き出すと、昼間と同じように卓に向かって腰を下ろし、脚を組んだ。
「あれからずっと一緒にいたそうだな。芳紗もおまえを気に入ったようでよかった」
静夏はうなずき、ついほほ笑んだ。
「本当におかわいらしい方で…。ずっと鴻秀さまのことをお話しでいらっしゃいました」
鴻秀の表情がかすかにゆるむ。
だがすぐに、真顔に戻って自分の足先を見つめた。
「これまでは私がいないと、ずっと一人で泣いていてあまりに不憫だったが…おまえがいれば大丈夫だろう。どうか芳紗を頼む」
静夏はうなずいた。

話はそれだけのようだった。
それで静夏はもう下がろうとし、下がりぎわに鴻秀に声をかけた。
「鴻秀さま、これはもう片付けてよろしいですか?」
「ああ」
湯飲みを二つ手にして、静夏は部屋から出た。

口をつけていないのは、いま座っていた鴻秀の前にあった湯のみだった。
皇帝が口をつけていないのに、客人が飲むとは。
ふと見ると、飲みさしの青磁の碗のふちには紅が残っていた。


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