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墨の香りの宝物

翌日静夏は、衛呈孝に連れられて宮中に向かった。
そしてまずは鴻秀と会うことになった。
案内されたのはおそらく鴻秀の私室だろう、黒い板張りの床の上に、よく使い込まれた様子の椅子が数脚並んでいる。
同じようにつややかに輝く真四角の卓が目に付く。
鴻秀は、その卓に向かって腰を下ろしていた。
長い脚をゆったりと組んでいる。

部屋にはゆかしげな墨の香りがただよっている。

窓からは明るい午後の日がさしこむ。
日の光を受けて座る鴻秀は、大変立派な様子だった。
人の上に立つべき人間が持つ威厳を感じさせる。
ただ、威厳があるからこそだろうか、どことなく他人を寄せ付けない感じがした。
「おまえが柳静夏か」
「お目にかかれて光栄に存じます」
「大変な能書家だな。あれだけの手跡の持ち主に、味気ない書類ばかりを書かせるのはどうかと思うほどだ」
「もったいないお言葉でございます」
衛呈孝が言葉をはさむ。
「この子の父親も母親も大変書にたけておりましたから。ですが、今はおそらくこの子のほうが腕は上でございましょう」
「たいしたものだ。そうそれで、衛呈孝から話を聞いたと思うが」
「はい。わたしなどのような者にお目を留めていただけるなんて、ありがたいお話でございます。ただ、わたしにはさすがに荷が重過ぎるかと思うのですが…」
隣の衛呈孝を気にしながら静夏がそう口を開くと、鴻秀はうなずいた。
「まあ、そう思うのも当然だろう。しかし、芳紗はひどく繊細で、周囲の侍女にもなかなか心を開かない。そろそろ学問をと思ってはみたものの、芳紗は男性が苦手なのでこれという師が見つかりそうにない。どうしたものかと思っていたところへおまえを知って、これはとな。だからまあ、一度、会ってやってほしい」
そう言うと鴻秀は立ち上がった。
鴻秀自ら案内するというのだ。

芳紗の住んでいるのは、宮中の奥まったところだった。
手入れの行き届いた、きれいな庭に囲まれている。
「もともと病弱ではあったが、以前は庭を走り回ることもあった。だが最近は、無理をするとすぐに熱を出してしまう。少し疲れてしまうと、それで数日間寝台から起き上がれないこともある。風邪を引くとすぐに悪化するし、いろいろな医者に診てもらっているが、なかなか丈夫にならなくて」
鴻秀の言葉に、衛呈孝が深くうなずく。
「今は少し不安定でいらっしゃいますが、もう少し大きくおなりになれば、自然にお体も丈夫におなりあそばすでしょう」
鴻秀の口調から静夏は、彼がこの妹のことを心底かわいがり、心配していることを感じることが出来た。
そもそも、今は即位して日々忙しいはずの鴻秀がこうして自ら師にふさわしい人間を探すこと、それだけでもかわいがっていることがすぐにわかる。
芳紗のことを話すときは、それまでとは違い、端正な顔がかすかに心配そうにゆがむ。
現に鴻秀は言った。
「こんなことにならなければ、私が自分で面倒を見てもよかったんだが」
「兄君のご崩御以来、息つく間もございませんからな。鴻秀さまこそお体を大切になさいませ」

静夏は鴻秀に連れられて芳紗がいる部屋に向かった。
その間、衛呈孝は別室で待つという。
侍女が扉の外から声をかける。
「芳紗さま、鴻秀さまがお見えでございます」
扉の向こうでは、線の細い女の子が寝台に横たわっていた。
そして、入ってきた兄を見ると、顔を輝かせながら体を起こした。
「お兄さま」
その弾んだ声に、静夏は、この皇女が兄を心底慕っていることをすぐに察することが出来た。
枕元の椅子に腰を下ろす鴻秀を、芳紗はじっと目で追っている。
「調子はどうだね」
「うん、大丈夫よ。ごはんもちゃんと食べたわ」
「そうだな、食事くらいはきちんととらないと。それで芳紗」
そこで鴻秀は、扉の前にいた静夏をちらっと振り返った。
「前から話していたが、おまえももう七歳だ。ちゃんと先生について学問を始めてもよい年頃だ。今日は先生を連れてきたんだ」
「え…?」
兄の視線を追った芳紗は、静夏を見て怪訝そうな表情を浮かべた。
その理由はすぐにわかった。
「あの人なの?」
「ああ」
「女の人?」
兄がうなずくと、それに芳紗はかすかに安心した様子だった。
静夏は一歩前に出て、芳紗に向かって一礼した。
「柳静夏と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「……」
「とても字が上手なんだ。おまえは前から、字が上手になりたいと言っていたろう、あの先生に教えてもらえばすぐに上手になるだろう」
すると芳紗はつぶやいたのだ。
「お兄さまに教えてもらいたいのに…」
「私よりも上手だから」
「そんなこと…」
芳紗はそこで、何か言いたげにしながらも口を閉じてしまった。
口を閉じ、しょんぼりと目を伏せた。
それを見た静夏は思わず口を開いていた。
「芳紗さま、そんなことはございません。わたしなどより、鴻秀さまのほうがうんとお上手でございます」
その言葉は、芳紗が言いたかったことだったらしい。
芳紗はぱっと顔を跳ね上げると、そうよね、と静夏を見やったのだ。
それに静夏が大きくうなずくと、芳紗は満足そうに笑った。
「うん、やっぱりそうよね、お兄さまはなんでもお出来になるもの」
だがそのときだった。
静夏の後ろの扉が、外から小さく叩かれた。
そして侍女が顔をのぞかせたかと思うと、鴻秀に向かって遠慮がちに声をかけたのだ。
「陛下、ご側近の方が…」
鴻秀はうなずいた。
用を持った側近が、鴻秀を迎えに来たのだ。
「お兄さま、わたしは平気よ。早く行って」
芳紗はそう言った。
さらに続けた。
「わたし、この先生とお話しているから」
それが虚勢であること、口からでまかせであることは、静夏にもすぐにわかった。
忙しい兄に気をつかっていることは。
鴻秀も、それを十分わかっているようだった。
だが、すぐにまた来るからと言うと、静夏の前を横切って部屋を出て行った。


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