墨の香りの宝物 十(完) 扉が外から勝手に開いたかと思うと、鴻秀が入ってきたのだ。 それを見た静夏は、自分でも気付かないうちに安堵していた。 鴻秀はそれにすぐに気付いたらしい。 彼は大またに静夏の前までやってくると、かばうようにその前に立った。 そして、玉英たちを無表情で見つめた。 無表情な顔に、ただ冷徹な視線だけが浮かんでいた。 「義姉上、こんなところまで一体何のご用ですか。温士潮まで。特におまえが、なぜここにいる」 「どうしても鴻秀さまにお話し申し上げたいことがございまして」 「それならば私に直接話せばよいだろう」 「鴻秀さまにお話し申し上げても一向にご承知くださらないので、やむなくこの娘からも口添えしていただきたいと」 「口添え?」 「お気に入りと耳にいたしましたので」 すると鴻秀は言ったのだ。 「私がこの娘を気に入っているのは、おまえみたいな人間ではないからだ。おまえのように、自らの欲望を満たすことだけを考えているようなやからでは」 「ずいぶんなおっしゃりようでございますな。私は常にこの国のことや陛下のことを考えております。だからこそ、日々申し上げているのでございます。 鴻秀さまもそろそろおそばに女性を置かねばなりません。それは皇帝としてご即位なさった以上、鴻秀さまにとり義務でございます。わたくしめのところの下の娘でしたらきっと鴻秀さまのお眼鏡にもかなうことと存じます。親であるわたくしが申し上げるのもなんですが、娘は才色兼備でしてきっと鴻秀さまによくお仕えすることと存じます。玉英からも話を聞いていることとは思いますが、是非、おそばにおいてやってくださいませ。玉英が先の陛下にお気に召されましたのと同様、きっと玉英の妹は鴻秀さまもお気に召すものと存じ上げます」 温士潮は続けた。 「無論鴻秀さまが、その娘をお気に入りとおっしゃるのでしたらそれでも結構でございます。ただ、我が家の娘もおそばに置いていただければ」 しゃべり続ける温士潮に対し、鴻秀は無言だ。 「それと、玉英のお子の件でございます。そのお子が男子であれば、どうなさいます。男子でしたら本来、兄上様のあとを継ぐべきはそのお子。兄上様も、ご自分のお子に跡を継いでもらいたいと思ったことでございましょう。 女子であればともかく、男子だった場合、やはりそちらが正統な後継ではございませんか。そう考える者も多いと存じますが。ややもすれば国を二分する争いになるかもしれません。争いになる前に、鴻秀さまの口からはっきりと、男子だったら位を譲るとおっしゃってお いたほうが」 鴻秀は、口をはさまずにただじっと温士潮の言葉を聞いていた。 玉英も口を開く。 「鴻秀さま、お兄さまであった先の陛下の御為でもございます。そんな娘にかまけているお暇があるのでしたら、どうかお早くご決断くださいませ」 「わかりました」 鴻秀は大きく息をついた。 「義姉上、まずは何度も申し上げている通りでございます。義姉上の妹の件、それはお断りいたします。あと、義姉上のお子の件」 鴻秀はそれをはっきりと口にした。 「そちらも、お断りいたします。もしもお子が男子であった場合でも、私は、兄上のお子に位を譲る気はございません。跡を継がせる気もございません」 「鴻秀さま!」 玉英が悲鳴を上げた。 「将来、私に子がなかった場合は無論、その私の甥に継いでもらうことになるかもしれません。ですが今の段階では、私は誰にも位を譲るつもりはございません」 「なぜですか!」 「私がそう決めたからです」 鴻秀は言い切った。 「義姉上、いくら義姉上とて、これ以上口をはさむことは許しません。ましてや温士潮」 鴻秀は温士潮に言い渡した。 「これ以上この件で騒ぐと、どうなっても知らんからな」 「なぜでございます。私は玉英の父親ですのに」 「だがもう兄上は亡くなった。おまえの娘は、兄上の后だった。兄上あっての義姉上だろうに」 そして鴻秀は二人をにらみつけた。 「今の皇帝は私だ」 静夏が見ている前で、玉英は顔を真っ赤にして立ち上がった。 そして父親とともに、腹立たしげに部屋を出て行った。 だがそれを、鴻秀は最後まで見ていなかった。 さっさと二人から目をそらすと、静夏を振り返った。 「大丈夫だったか?温士潮が昨日今日と不審な動きをしているそうだ。もしやおまえに危害を加えようとしているのでは。おまえが目ざわりだと」 「わたしは大丈夫です」 静夏はそう言ったが、鴻秀はそれに対し首を振った。 「おまえはもう少し自分のことを考えるべきだ。おまえはいつも芳紗のことばかり…。おまえに何かあったら、芳紗が悲しむ。芳紗だけではない、私も」 鴻秀はそう言うと、静夏に腕を回した。 「鴻秀さま…?」 「すぐにおまえの周りに人を増やすから。おまえに何かあったら…」 鴻秀は、静夏を抱き締める腕に力を加えた。 「どうかそばにいてほしい。芳紗だけではなく、私のそばにも」 静夏の耳元で、鴻秀は続けた。 「どうか私の后になってほしい」 腕の中で静夏は、目を丸くした。 鴻秀は腕の力をそっと緩めると、そんな静夏をじっと見つめた。 見つめられると静夏はすぐに赤くなる。 赤くなった頬を、鴻秀はそっと手で押さえた。 その手からは、柔らかな墨の香りがする。 「本当に、よろしいのですか?」 静夏は小声で尋ねた。 「ずっとおそばにいても。いつも、おそばにいても」 うなずく代わりに鴻秀は、静夏に顔を近づけた。 そして、その口元に自分の唇を寄せた。 「おまえこそ、私にとっては宝物だ」 静夏から顔を離した鴻秀は、懐からきれいに折りたたまれた紙を取り出した。 「今は実は、これをおまえに渡しに来たんだ。そうしたら二人が来ていると聞いて」 「それは…?」 「昨夜のは、やはりおまえに失礼なような気がして。一度破ろうとしたものだから」 見てみるとそれは、鴻秀の書だった。 やはりとても、美しい字だった。 美しく、そして立派だった。 静夏はそれを両手で大切に持ちながら、鴻秀を見やった。 「いただいてよろしいんですか?」 「是非もらってほしい」 静夏はほほ笑んだ。 「宝物にします」 「おまえにそう言ってもらえれば十分だ」 鴻秀も笑った。 「十分すぎるほどだ」 それから芳紗のもとに向かうと、芳紗は二人がそろって姿をあらわしたのを見て狂喜した。 腰を下ろしていた椅子から飛び降りると、まずは兄にしがみついた。 「先生!お兄さまも!お兄さま、聞いた?先生にひどいことを言う人がいるのよ!許せないわ!」 「もう大丈夫。それにしてもおまえ、偉かったな。先生をかばったとか」 「当然よ。だって、先生の代わりなんかいないもん。お兄さまだってそう思うでしょう?」 鴻秀が深くうなずくと、芳紗は満足したようだった。 「そうよね。わたしも先生のこと好きだけど、お兄さまも先生のことお好きでしょう?」 「ああ。だから、先生にはおまえのお姉さまになってもらうようお願いした」 「え?」 芳紗は目を丸くしていたが、すぐにその目を輝かせた。 「もしかして、先生がお兄さまのお后様になるってこと?」 鴻秀がうなずき、同時に静夏が頬を染めると、芳紗は静夏にしがみついた。 「うれしい!じゃあ、これからずっと先生と一緒ね。お兄さまとお姉さまと、ずっと一緒ね」 やがて生まれた玉英の子は、女子であった。 そしてその後、静夏は男子を産み、その子が跡を継ぐことに何の問題もなかった。 〔完〕 [*前へ] [戻る] |