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墨の香りの宝物

その国では最近、皇帝が崩御したばかりだった。
まだ若かった皇帝に男子はなく、跡を継いだのは、皇帝の弟皇子である鴻秀(こうしゅう)だった。

鴻秀は即位前より立派な人物との評判が高かった。
そして即位後もその評判にたがうことなく、立派に国を治めていた。
誰もが皆、この治世が長く続くことを願っていたのだが、そうではない人物もいた。

先帝の皇后であった女性には、子がなかった。
だからこそ先帝の弟が跡を継いだのだが、崩御のわずか数日後に、彼女の懐妊が判明したのだ。
その子がもしも男子であれば、どうすべきか。
彼女の実家は、その男子に跡を継がせたいと考えたのだ。

そんなある日のこと。
宮中で政務を見ていた鴻秀は、ある役所から手元に届けられた一枚の書類に目を留めた。
「これは?」
鴻秀の言葉に、側近も書類に目をやる。
「陛下、どうかなさいましたか?」
「ずいぶん見事な手跡ではないか。一体誰が書いたのだろう」
「すぐに調べさせましょう」
鴻秀のそばを離れた側近は、すぐに答えを持って帰ってきた。
「柳静夏(りゅう・せいか)という娘だそうにございます」
「娘?」
「ええ、まだ十六、七だとか。書の腕を見込まれて、その役所で筆耕の仕事を請け負っているそうです。書類の清書をその娘に任せているとか。昨年亡くなった、柳啓正先生の娘だそうでございます。先生が衛呈孝(えい・ていこう)さまと親しくお付き合いをなさっておいでだったという縁でだとか」
「柳啓正?あの著名な学者の?」
「はい」
「ほう、なるほどね。父親は立派な学者だったが、娘はこれまた昨今まれに見る能書家ではないか。この書の腕前、実に見事だ。こんな味気ない書類を書かせるのは惜しいな」
鴻秀はそう言うと、何やら少し考えるそぶりを見せた。
「陛下?」
「衛呈孝を呼んでくれ」

静夏は都で一人暮らしをしている。
父親は著名な学者であり、母親も教養にあふれた女性で、静夏は二人から様々なことを教えられて育った。
しかし現在、その両親は既に他界している。
両親亡き後、地方にいる親戚を頼ってもよかったのだが、幸い父親の生前の知り合いが面倒を見てくれ、都にある今までの住まいで今までどおりの生活を送ることが出来ていた。

その知り合い衛呈孝は、現在、大臣を務めていた。
衛呈孝が管轄している役所、その役所で静夏は、書類の清書を請け負っていたのだ。
主に、皇帝に提出する書類の清書である。
週に何回か役所へ行き、片隅を借りて清書を済ませる。

その日も静夏は自宅を出て、いつもの道を通って役所へと向かっていた。
路地裏を抜け、大通りに出る。
角を曲がって、役所の門をくぐる。
役所の人間もみな静夏のことはよく知っており、静夏を見かけると気軽に声をかける。
その日も静夏は、建物の中に入るなり声をかけられた。
「ああ、静夏。聞いたかい?陛下がおまえの字をおほめになったそうだよ」
「陛下が?」
「おまえが清書した書類にお目をとめられたそうだ」
「すごいじゃないか。昨今まれに見る能書家だとおっしゃったとか」
「そんな…大した腕ではありませんのに」
「いやいや、大したものだよ。おまえの字を見て感心しない者はない。それに今度は陛下がお認めになったんだから」
「すばらしいね。ああそうそう、陛下といえば、あの噂を聞いたか?鴻秀さまは、もしも生まれたお子が男子ならご自分はその子に位を譲るとおっしゃったとか?」
「ああ、その噂。それは実にご立派なことだが、現実には鴻秀さまがこのまま帝位におつきのほうがよいような気がするがね」
「まあ、それはもう少し先のことだ。女のお子様かもしれないのだし」
「だがその鴻秀さまのご発言、どうも鴻秀さまがおっしゃったのではないという噂もあるね」
「あれだろう?温(おん)さまが捏造したという噂」
「そう、兄上様のお后、玉英(ぎょくえい)さまのお父上」
「温大臣は常に今以上の権力を握りたがっているから。だって、鴻秀さまにもまた自分の娘をめあわせようとしているそうじゃないか」
「本当か?それで鴻秀さまはその話を受けたのか?」
「お断りなさっているんじゃないか?でなければもうとっくにその娘がお后の座に座っているだろう」
「それもそうだな」

役所にいると、いろいろな噂が耳に入ってくる。
静夏は彼らの話をおとなしく聞いていたが、すぐに自分の仕事を思い出し、その場を離れようとした。
「静夏?どこへ行くんだい?」
「仕事をしてまいります」
「いいじゃないか、もう少しここにいたって。おまえは本当に真面目だね」
「そういえば静夏、さっき衛さまがおまえを探していたよ。もうすぐ来ると言ったら、それならそのときにとおっしゃっていた。おそらくは、陛下がおほめになったことと関係あるんじゃないのかね」

いつもの部屋に向かった静夏は、窓辺にある机に腰を下ろした。
机には筆やすずりが整然と並んでいる。
するとそこへ、人がやってきたのだ。
「衛さまがお呼びだよ。大至急来てほしいそうだ」

言われるがまま同じ建物の中の別室に向かうと、そこには衛呈孝が椅子に腰を下ろして静夏を待っていた。
衛呈孝は、静夏の亡き父親の知り合いである。
静夏が幼い頃から顔見知りで、まるで自分の娘のようにかわいがってくれていた。
「静夏、聞いたかね?鴻秀さまがおまえの字をおほめになった話は」
「はい。もったいないことでございます」
「それで今しがた、その件で鴻秀さまに呼ばれたんだ。おまえ、鴻秀さまの妹君のことを知っているかね?お母上は異なるので異母妹にあたられる方だが」
「鴻秀さまの妹君?ええ、確か芳紗(ほうさ)さまと…体がお弱いと耳にしておりますが」
「そう、その芳紗さまだ。七つにおなりになるのだが、ご病弱な上に繊細なご性格でいらしてなかなか周囲にお心を開こうとなさらない。鴻秀さまは日ごろから芳紗さまのことをかわいがっていらっしゃるのだが、最近は、もう七つにおなりになるのだしそろそろきちんと学問を始めさせたいとお考えだったそうだ。だが何しろ芳紗さまはそういうお方で、そもそも男性が苦手なのだ。それで人選に悩んでいたところ、おまえのことをお知りになったそうだ。学者の娘で能書家だとな。
いま鴻秀さまにお会いしてきて、おまえのことを聞かれた。おまえの父親は立派な学者で、おまえも当然その教えは受けていると話したら、まさに適任だろうとおっしゃるのだ」
衛呈孝は、それを簡単に静夏に告げた。
「鴻秀さまは、おまえを芳紗さまの師にとおっしゃるんだ」
「わたしがですか?」
急に言われた静夏は目を丸くした。
「ああ。学問や書を手ほどきしてほしいそうだ」
驚く静夏に、衛呈孝はまるでそれが大したことではないように話を続ける。
「なに、どちらかというと話し相手だろうし、おまえなら大丈夫。きっと芳紗さまもおまえをお気に召されるだろう」
「そんな…わたしには荷が重過ぎます。皇女様のお勉強を見るなんて。ましてやそんなに繊細なお方なのに」
たとえこれが急な話でなくとも、あまりに重責だと静夏は断ろうとした。
だが、世話になっている衛呈孝の手前もある。
「おまえが断りたいと思うのもわかる。とにかく一度、芳紗さまにお会いしてみないか」
そう、肝心の芳紗だって自分を気に入るとは限るまい。
芳紗に会って、気に入られないとなればそれでこの話はきれいになくなるだろう。
何しろ繊細な皇女だというのだから。

それならと静夏は、ひとまず芳紗と面会することにした。


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