真珠の声 九 「まさかあの夜の歌姫が、妹の実の娘だったとは」 「実に喫驚だ。玲韻と申すそうだな、顔を上げよ」 そう言われた玲韻は、まずは隣の峻定をちらっと見やった。 峻定は、その玲韻に対し小さくうなずいてくれる。 峻定がうなずいたので、玲韻は顔を上げた。 皇帝の隣には、美しい女性がいた。 幾つだろう、年齢はよくわからない。 皇帝の寵姫はきっと、さぞや妖艶な女性なのだろうと玲韻は勝手にそう思っていた。 だがいま目の前にいる女性は、妖艶というよりむしろ清楚な美人だった。 きらびやかな刺繍がほどこされた、華やかな衣装を身につけている。 結い上げられた豊かな黒髪には、色あざやかな髪飾りが輝いている。 だがそれらの装飾はすべて、彼女自身の持つ輝きにはかなわなかった。 そんな彼女を一目見て、玲韻はわかった。 三歳の頃に別れたのだからいまさら会ってもわかるまいと、そんなふうに考えていたことなど思い出しもしなかった。 間違いない。 この女性は、自分を産んでくれた人だ。 自分の母親だ。 「友菊、どうだね、この娘がおまえの生き別れになった娘だそうだ」 皇帝が隣に座る夫人に言った。 だが夫人は、玲韻にはちらっと視線をやっただけで、あとはただ怪訝そうな表情を満面に浮かべたのだ。 「陛下、この娘は先夜の歌姫では?」 「ああ、言っただろう、先夜の歌姫がおまえの娘だったと。玲韻という名だそうだ」 「ええ、確かに、昔わたくしが産んだ娘には玲韻と名づけましたが」 夫人は言い切った。 「この娘は違います」 皇帝は首をかしげた。 宰相が慌てたように夫人に向き直った。 「どうして違うことがあろうか。この娘は玲韻という。史玲韻というそうだ。父親の名は史淵由。おまえが産んだ下の娘に間違いないはずだ」 「お兄様、どこかでお間違えになったのでは。いくらなんでも自分の血を分けた娘を見間違えるはずはございません。この子はわたくしの娘ではございません。同姓同名でございましょう」 「そんなはずは…」 「陛下、お騒がせして申し訳ございませんでした」 夫人がすまなそうに皇帝に言った。 「わたくしのせいで貴重なお時間を無駄にしてしまって」 「いや、おまえのためなら構わんのだが。そうか、違ったのか」 「ええ、違います。わたくしの娘ではございません」 再度そう言い切った夫人を、峻定は無表情で見つめている。 玲韻は、ただただ驚いていた。 どうして? 自分はこの人が母親だと思ったのに。 峻定だってそう言ったのに。 違うはずなどない。 この夫人は自分の母親に違いないのに。 それなのになぜ、本人はこうきっぱり否定するのだろうか。 「それならばまあこの件は仕方がないな」 皇帝はなおも申し訳なさそうな顔をしている夫人に対し、気にするなとなだめる。 宰相は不愉快そうな表情を露骨に浮かべている。 だがすぐに、愛想笑いを皇帝に向けた。 「私めの手違いでとんだご迷惑をおかけいたしました。しかし陛下、ではそれはそれといたしまして、いずれにせよこの娘は先夜の歌姫、もうそろそろ歌声を聞かせていただきとうございますな」 「おお、そうだな」 皇帝はその言葉に興味を示した。 「峻定、おまえは歌わせるからとこの娘を引き取ったな。もうそろそろ歌わせることが出来てもよいはずだ」 「父上、なぜこの娘が歌えないのか、私は何度もご説明申し上げたはずです」 二人の話題が変わったときから、峻定は険しい表情で二人を見比べていたが、そこで父親である皇帝に不満げな視線を向けた。 「肉親を失ったばかりのこの娘に対し歌えと強要するなど、以前の父上なら絶対になさらなかったのに」 「峻定様、陛下は強要なさってなどいらっしゃいません」 宰相が言う。 「ただただ純粋に美しい歌声をお聞きになりたいからこそのお言葉では」 「おまえと話しているのではない。父上、そもそも、歌姫一人におおげさにこだわるのはおやめください。言ってみればたかが歌姫一人ではございませんか。父上がこだわるからこそ、そこにいる宰相までこだわるのでございます。こんなことにこだわるより、他になさるべきことが五万とございますのに」 「相変わらずうるさいやつだ」 皇帝はうんざりとした様子で峻定から顔をそむけた。 「肉親を失ってからもう日もたつだろうに。おまえこそ、この娘を歌わせると約束したではないか、その約束を守らないのははなはだ問題だ。わしとのたった一つの約束をいつまでも守れずにどうする。約束をいつになっても果たさないということは、約束をたがえたということだ。たかが娘一人を思うように出来なくてどうするつもりだ」 「『たかが娘一人』、父上もそうお考えなのではございませんか。娘一人にこだわるよりも、もっと大切なことがございます。父上、とにかく、私の話をお聞きください。いつまでこんな状態を続けるおつもりなのですか。これでよいとお考えなのですか。いつまで董夫人にかまけていらっしゃるおつもりなんです。いつまで政務を宰相に任せきりにしておくおつもりなんです。父上は名君と評判でございました。しかし世間では、それはもう遠い過去のものになりつつあるのです。このままでは国が乱れます。父上のせいでこの国が乱れてもよいのですか」 皇帝の表情がこわばる。 そして小声でつぶやいた。 「おまえはそんなに、わしのやることが気に入らないというのか」 玲韻は二人の様子をはらはらしながら見守っていた。 こわばった皇帝の顔に、徐々に怒りの色が浮かんでくるのがわかる。 どうしよう。 そのときだった。 皇帝の隣の董夫人が、急に額をおさえたのだ。 「友菊?」 皇帝がすぐにそれに気付いた。 「どうした」 「ちょっと頭痛が…」 「それはいけない、早く戻ろう」 皇帝はさっと立ち上がると、自ら董夫人の体を支えて立たせてやった。 そして、二人して部屋を出て行ってしまった。 宰相はその様子を見つめていたが、二人の姿が消えると憎々しげに玲韻をにらみつけた。 だが、それだけで何も言わず、皇帝たちのあとから足音も荒く出て行った。 「峻定様…」 玲韻が声をかけると、峻定は肩で息をついた。 「父上にも本当に困ったものだ。それより」 峻定は玲韻のほうに向き直った。 「これでおまえは、公には夫人とは何の関係もないことになる」 「え…?」 「父上がそうお認めなのだから」 「でも…」 「そう、確かにおまえは夫人の娘だ。間違いない。だから疑問は、なぜ夫人がああ言ったかだ」 玲韻は、今しがた董夫人が出て行った扉を見つめた。 「わたしは一目見て、あの方が自分の母親だと思ったのですが…」 「一体どういうつもりなのか。まあ、ありがたいことには違いないが」 「…?」 その言葉に玲韻が峻定を見やると、峻定は玲韻の肩を抱いて部屋を出ようとしたところだった。 「一旦屋敷に戻ろう」 ああ、そうか。 歩き出したとき、玲韻はようやく気付いた。 自分が董夫人と何の関係もないということは、自分は峻定のところにいても構わないということになるのだ。 峻定と一緒にいても、特に何の問題もないということなのだ。 [*前へ][次へ#] [戻る] |