真珠の声 八 屋敷からもれる明かりが、夜の池をうっすらと照らし出していた。 色あざやかな鯉たちも、今は静かに休んでいる。 橋を渡るとき峻定は、足元に気をつけるよう何度も言ってくれる。 言ってくれるだけでなく、手も取ってくれる。 鯉がねぼけたのか、突然水音を立てる。 玲韻が驚くと、峻定は抱き留めてくれる。 「危ない」 水音にも驚いたが、急に抱き締められたことにも驚いた。 「大丈夫か?」 玲韻は目を丸くしたままうなずいた。 だが峻定は、そのまま玲韻を離そうとはしなかった。 離すどころか、抱き寄せる腕に力を加えたのだ。 「峻定様…」 そう玲韻は声を出したつもりだった。 だが声はよく出なかったし、出たとしてもそれは、峻定の胸元の絹地に全部吸い込まれてしまっただろう。 耳元で声がした。 「大丈夫。おまえは何も心配することはない」 「……」 そうだといいのだけど。 判明したのは翌々日のことだった。 朝から宮中に出かけていた峻定が、正午過ぎに戻ってきたのだ。 出迎えた玲韻は、彼の厳しい顔つきを見てすぐにわかった。 峻定は、玲韻に一緒に部屋に来るよう言った。 「峻定様、やはり…」 玲韻は部屋に入るやいなや、峻定の背中に向かって声をかけた。 だが峻定はそれにはうなずかず、まずは無言で椅子に腰を下ろした。 「父上が、おまえを連れてくるようおっしゃっている」 「え…?」 「実は宰相もおまえのことを調べていた。それはわかっていたのだが、彼もまた調べ当てたらしい。おまえの母親が董夫人だということ、つまりはおまえが自分の妹の娘だということにな」 やはり、そうだったのだ。 「彼は父上の前で、生き別れになっていた娘を早く夫人に会わせてやってほしいと言った。それを聞いた父上は、夫人のためにおまえを早く連れてこいとおっしゃるんだ」 「でも、どうして宰相様もわたしのことに…?」 「初めは誰かに似ていると思ったそうだ。彼は、夫人の娘の名を覚えていたらしい。下の娘は玲韻という名前だったとな。そこからもしやと思ったそうだ」 峻定は続けた。 「覚えていて当然だ。おまえの両親の仲を裂いたのは彼なのだから」 「…?」 「妹の美貌に目をつけた宰相は、おまえが三歳になった頃、父親と無理やり別れさせたんだ。そうして、自分の出世のために妹を複数の高官のところに嫁がせた。それで最終的には、皇帝のところに送り込んだわけだ。おまえの父親は娘たちまで巻き込まれるのは避けたかったんだろう、だから都を離れてずっと欣芸にいて、決して戻ろうとはしなかったんだろう」 そういうことだったのか。 というとやはり、自分の母親は間違いなく董夫人なのだ。 「では峻定様、わたしは…」 「行かなくていい」 峻定は、玲韻の言葉を最後まで聞かずに言い切った。 「いまさら母親に会わなくてもいいだろう」 「ですがそうなると峻定様が…。陛下のご命令なのですし…」 「構わない」 「それに宰相様もこの事実をご存じということは、すぐにこのことは世間に知れ渡ります。よりにもよって董夫人の娘であるわたしが、峻定様のところにいるわけにはまいりません。わたしがここにいるだけで、峻定様にご迷惑がかかります」 そう言う玲韻の声は最後はかすれていて、聞き取れないほどだった。 それでも、玲韻は言った。 「どうかわたしを陛下のもとにお連れください」 峻定は、そう言う玲韻を見つめた。 そして立ち上がると、向かいにいた玲韻を抱き寄せた。 しかし彼は、もう何も言わなかった。 玲韻もただじっと腕の中で、峻定の息づかいを感じていた。 きっともう、こんなふうに抱き締められることはないだろう。 峻定と関わることは、今後決してないだろう。 いや、あってはいけないのだ。 「わたしはもう二度と、歌いません。たとえ歌えたとしても、歌おうとは思いません。峻定様のために歌えないのでしたら、歌う意味はございませんから…」 「玲韻…」 扉の外から声が掛かった。 「峻定様、陛下からのご伝言を持った者が参上いたしました。早く玲韻様をお連れするようにと…」 峻定は無言で玲韻を自分からはなした。 宮中まで玲韻は、峻定の馬車に同乗して向かった。 馬車は宮中に多数並ぶ建物の中の、一つの小さな建物に向かう。 赤い柱が屋根を支えている。 「ああ峻定様、お待ち申し上げておりました」 玲韻を連れている峻定を見た宦官が安堵の表情を浮かべた。 「陛下が今か今かとお待ちでございまして」 それに峻定はうなずいたが、すぐに困ったように首を振った。 「なぜ父上が御自ら指示を出されるのか。確かに、普通ならば生き別れになっていた親子が会えることは悪いことではなかろうが、何も父上が率先してなさらなくとも。他になさることがあろうに…」 皇帝はよほど董夫人を寵愛しているのだろう。 一体、どういう女性なのか。 宦官に先導されて、玲韻は峻定とともに建物の中の一室に向かった。 「こちらでございます。陛下」 宦官が扉の内側に声をかけた。 「峻定様がお見えでございます」 「ああ、遅かったな」 宦官が扉を開ける。 玲韻はうつむいた。 「峻定、早くその娘をこちらへ」 「父上、落ち着いてくださいませ。そうせかされても困ります」 峻定は、背後の玲韻を振り返った。 そしてうつむいてしまっているのを見ると、腕を伸ばし背中をそっと押してくれた。 玲韻が中に入ると、扉が外から静かに閉まる。 「陛下、私も驚きましてございます」 玲韻の耳に宰相の声が届いた。 彼も部屋にいるのだ。 玲韻は顔をそっと上げた。 部屋の奥に、皇帝がいるのがわかる。 その傍らに宰相が立っている。 皇帝の隣にはもう一人、女性が椅子に腰掛けているようだった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |