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真珠の声

身内を亡くした玲韻に、欣芸の街の人々はみんな親切にしてくれた。
それは、ふさぎこんだ玲韻の心をなぐさめてくれるに十分だった。
だが峻定の優しさはそれとはまた違っていた。
なぜだか峻定といると、失われた声が戻ってくるような気がしたのだ。

峻定は翌日には、わざわざ都の街を案内してくれた。
昔住んでいたのはどの辺りか、と気にしてくれたが、玲韻には記憶はまったくない。
玲韻はただただ、いまこのとき、峻定と一緒にいられるだけでうれしかった。
馬車でゆっくりと街をめぐり、郊外にある丘まで連れて行ってくれる。
馬車から降りて周囲を見渡すと、さわやかな風が頬をなでる。
「ほら玲韻」
峻定の指し示すほうを見ると、都の街が一望できた。
思わず「まあ」と声を上げると、その声にはほんの少しだが張りが戻ってきていた。
風が耳元の毛を揺らし、玲韻が手で押さえると、峻定の手が伸びてきて直してくれる。

このままここにいられたら、他には何も望まないのに。

数日間、玲韻は峻定の屋敷に滞在したあと、欣芸に戻ることとなった。
戻りたくないと思ったが、そういうわけにはいかなかった。
自分のような娘が、いつまでもここに世話になるわけにはいかない。

せめて歌えたなら、この屋敷に置いてもらえただろうか。
ずっと峻定と一緒にいられただろうか。

声が出ないことを、玲韻は初めて悔やんだ。

翌日欣芸に戻るという晩、玲韻は峻定の部屋を訪れた。
だが、部屋には先客がいるようで、玲韻は出直そうと思った。

ここにいる数日間だけでも感じ取れたのだが、峻定は父帝のことを非常に気に病んでおり、何とかして目を覚まさせようとしているようだった。
以前の、名君と呼ばれていた父親に戻ってもらいたいと思っているようだった。
そのために、そばにいる女性を、そしてその兄である宰相を遠ざけるよう口をすっぱくして諫言しているのだ。
そんなにお気に召しているなら遠ざけなくともよい、せめて振り回されるな、任せきりにするな、とも訴えているそうだったが、毎日をそれを繰り返しているということは、皇帝は聞く耳をまったく持たないのだった。
あげくの果てに、うるさい皇子だと言い放つ。
それでも峻定は、毎日父帝のところに行っては訴えていたのだった。

峻定のそばには、そんな彼を支えようと多くの人間が集まっていた。
彼らの中には、もう皇帝として有名無実の父帝から力づくででも帝位を奪い取るべきだと進言する者もいるようだった。

日中、手があくと峻定は必ず玲韻の相手をしてくれた。
だが、峻定のところには絶え間なく人がやってくる。
いまも、そんな一人がやってきているのだと思われた。
しかし、部屋の中から漏れてくる声は、自分のことを話しているようなのだ。

「玲韻の両親の件は?」
「玲韻様のお父上は、確かにご優秀な官僚だったそうで、お若いときから相当ご活躍なさっていたそうです。それで、奥方のお名前は確かに董友菊様と。ご夫妻の間には、お嬢様が二人いらしたそうです」
「董友菊とは、あの董友菊と同一人物か?」
「それはまだ…」
「あんなに大きい娘がいるとはついぞ聞いたことがなかったが…一体幾つなのか判然としないからな」

あの、とは?
峻定は、董友菊という名の女性を知っているのだろうか?

「ですから峻定様、玲韻様にはもう少しこちらにいらしていただいたほうが。お母上のことがはっきりするまでは」
「そうだな…。目を離した隙に巻き込まれるかもしれない」

巻き込まれる?
何に?

玲韻がそう思ったとき。
部屋の中から扉が開いたのだ。
「玲韻様…」
戸を開けたのは、峻定と話していた、彼の側近の一人だった。
「玲韻?」
峻定がこちらを見ている。
「も、申し訳ございません、峻定様にご挨拶をと…」
「ああ、じゃあ入りなさい」
峻定は側近に目配せをした。
側近が部屋を出て行き、入れ代わりに玲韻を中に入れてくれる。
「あの…」
「今の話を聞いたのか?」
玲韻が一瞬とまどった後にうなずくと、峻定は別に気分を害した様子もなく口を開いた。
「董友菊というのは、あの女の名前なんだ。父上がいま寵愛しているあの女性、董夫人の」
「え…?」
「だからその名をおまえが口にしたとき、少し驚いた。聞き違いかと思ったのだが」
「きっと同姓同名では。いくらなんでもそんなことは…」
「それはまだわかっていない。ただ、おまえの父親と死別ではないことだけはわかった。おまえの父親が母親と別れたとき、まだおまえの母親は生きていた。それからおまえの父親は欣芸に向かったそうなのだが、母親はどうしたのか…。まだ調べている最中だ」
「……」

母親がまだ生きているのはともかく、いくらなんでも、皇帝の寵姫におさまっていることはないだろう。
それにそうなると、あの宰相だって自分の伯父にあたることになる。

「おまえ、宴で董夫人の顔は見なかったのか?」
「ええ、ずっとうつむいていましたので…」
「そうだな、それに三つで生き別れたのだから、顔を見たとてわかるまい。しかし、董夫人はおまえの名前を聞いているはずだ。名を聞いた上で、あの女のほうはおまえの顔を見たのだから、もしもそれで心当たりがあるのなら、向こうから何か言ってくるだろう。おまえがここにいることは、あの場にいた者なら誰でも知っているのだから」
それはそうだ。
「だが、もしも本当におまえが董夫人の娘であるなら、巻き込まれてしまうかもしれない」
峻定は言った。
「稀代の歌姫が自分の娘だと知ったら、あの女はどうするか。父上の歓心を買うためにおまえを利用するかもしれない。それにおまえがあの女の娘なら、おまえは宰相の姪にあたる。妹を自分の出世の道具としている宰相が、姪を利用しないわけがない。宰相もまた、おまえの歌声で父上に取り入ろうとするだろう。おまえは利用されてしまう」
玲韻は小さくうなずいた。
「欣芸に帰したいのはやまやまだが、今しばらくはここにいなさい。母親の件がはっきりとわかるまでは」

峻定が、自分のことを心配してくれているのは痛いほどよくわかった。
だがしかし、万が一自分がその「董友菊」の娘だったとしたら。

峻定は、名君だった父帝の目を曇らせてしまった宰相とその妹を、相当憎々しく思っているようだった。
そばから排除したいと思っているのだ。
自分がそんな二人の血縁だったら。

峻定のもとにいられるわけがないのだ。
いていいわけがないのだ。

そうだとしたら、どうしよう。

「玲韻、池を見に行こう」
考え込んでしまった玲韻に、峻定が不意にそう声をかけた。
玲韻がこの屋敷の池をとても気に入っていること、それを峻定は承知してくれていた。
彼は立ち上がると、玲韻がついてくるのを確認しながら部屋を出た。


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