真珠の声 六 言葉に甘えたつもりはなかったのだが、翌朝玲韻が目が覚めたのは、ずいぶんと日が高くなってからだった。 窓の外はすっかり明るくなっている。 起き上がった玲韻は靴を履くと、窓辺へと向かった。 ゆうべ、この部屋に案内されたときは暗くてまったくわからなかったのだが、窓の外には庭がどこまでも広がっている。 木々の向こうに大きな池が見え、向こう岸まで石造りの橋がかけられている。 水面の動きから、どうも魚がいるらしい。 おそらく、いつまでも起きないと気にしていたであろう侍女がやってきて、起きている玲韻を見て安心したように笑った。 「あまりによくお休みでしたので、お起こしするには忍びなくて。峻定様も、よく休ませてさしあげるようにとおっしゃっておいででしたし。それで、その峻定様が、起きられたらご自分のところへいらしてほしいと仰せです」 侍女はそういったが、玲韻が身支度を整え終えたとき、峻定のほうからやってきた。 「よく休めたか?」 玲韻はうなずいたが、同時に、休みすぎて寝坊したことが恥ずかしく顔を赤らめた。 「申し訳ございません、すっかり寝過ごしてしまって…」 「疲れていたんだろう。ゆうべも言ったが、何の気兼ねもいらないから」 玲韻は小さくうなずいた。 「欣芸には使いを出しておいたから。長官も心配しているだろうし」 「何から何まで、本当にありがとうございます」 峻定は首を振った。 「おまえには迷惑をかけたのだから、これくらいは当然だ。それにせっかくなのだから、都の街を見てから帰るといい。明日にでも案内しよう。おまえ、都は初めてだろう?」 「え、あ…」 玲韻が一瞬返答に詰まると、峻定は首をかしげた。 「違うのか?」 「あの、わたしは生まれは都なんです。それで、三歳までは都にいたそうなんです。ですので、いたと申しましても何も覚えてはいないのですが」 「都に?欣芸の街の出身だとばかり思っていたが」 そう尋ねながら、峻定は部屋の椅子に腰を下ろした。 着ている絹の服が、優しげにきぬ擦れの音を立てる。 彼の動きを追って、玲韻は体の向きを変えた。 「物心ついたときには欣芸におりましたから、実際はそうなのですが」 「そうか、おまえはここで生まれたのか。なぜ欣芸に?父親は役人だったと聞いたが…ああ、父親の転勤か」 「ええ、…」 出発前に長官から聞いた話が、玲韻の頭の中をよぎった。 峻定に話そうか話すまいか迷ったが、その前に、玲韻の戸惑いの表情を峻定は見て取っていたようだった。 「父親に何かあったのか?」 「いえ、あの…わたしも、つい最近聞いたばかりなのですが…」 玲韻は、峻定には話すことにした。 自分などにこんなに親切にしてくれる峻定に、ぜひ聞いてもらいたかった。 「わたしはずっと父は、転勤でやってきたと思っていました。母はわたしが三歳のときに死んだそうで、それをきっかけに都を離れたいと思ったようだと…ずっとそう思っていました。でも今回、都に来るにあたって、旦那様が話してくださったんです。 旦那様のお話ですと、父は、都で将来を嘱望されていた官僚だったそうなんです。それを、自ら望んで都落ちしたとか…。 欣芸に来てからも、都からは戻るようにというお話が何度もあったそうです。でも父は、それをすべて断っていたそうです。どうも、亡くなったという母と関係しているようなんですが…。 父が言うには、母はわたしが三つのときに亡くなったそうです。でも、旦那様は、母はまだ生きているらしいとおっしゃるんです。旦那様はそれを父から聞いたそうです。でも、父からは内緒にしてほしいと言われていたそうなんです。 そして旦那様がおっしゃるには、父が都落ちをしたのは、母が関係しているらしいと…。母と何らかの事情があって別れ、その母がいる都にはいたくなかったため、欣芸に来たのではと。だから、都からの度重なる召還にも応じなかったのではと…」 「おまえの母親は都にいるのか…。どこにいるのかはわかっているのか?名は?」 「いえ、母のことはいいんです。わたしには何の記憶もありませんし…。それに、実際、生きているのかはわかりません。父は二年前に亡くなりました。ですから、これは二年前のお話なんです」 「だが、父親が口止めをしていたということは、おそらくそれは事実だろう。おまえには死んだと言っていたが実は生きている、そういうことなんだろう」 「そうかもしれませんが…」 「娘であるおまえにも言わなかったということは、何かよほどの事情があったのだろう」 玲韻はうなずいた。 「父親の名は?」 「史淵由と申しました」 「母親は?」 「ええ、あの、董友菊(とう・ゆうきく)と申したそうですが…」 「董友菊?」 その名前を聞いた瞬間、峻定の顔がこわばった。 それまで穏やかな表情を浮かべて玲韻の話を聞いていてくれていたのが、急に鋭い視線で玲韻を見据えたのだ。 「え…?」 玲韻は、どうかしたのかと目を見開いた。 自分は何か、変なことを言ってしまったのだろうか。 だが、峻定の顔はすぐに笑顔になった。 「いや、何でもない。母親はどんな人物だったか?まあもっとも、覚えてはいないだろうが」 峻定の笑顔に、玲韻もほっと胸をなでおろした。 なぜ彼が父親のことは尋ねずに母親の人物像だけを尋ねたのか、大して気にも留めなかった。 「ええ…ほとんど記憶はありません。ただ優しくて、きれいだったということしか。ですので、もしもいま会ったとしてもきっとわかりませんし、特に会いたいとは…」 「そうだな…」 峻定は、そこで椅子から立ち上がった。 「じゃあ、ゆっくりするといい。好きなように過ごして構わないから」 「ありがとうございます。あの、では…」 玲韻は、それをおずおずと尋ねた。 「お庭を見てみても構いませんでしょうか?」 玲韻の遠慮がちな様子に、峻定は何事かと思ったようだったが、その言葉にほほ笑んでうなずいた。 「ああ、もちろん」 玲韻はぱっと顔を輝かせた。 その様子に、峻定も笑った。 許可を得た玲韻は早速、池のほとりに向かった。 池には鯉がいて、楽しそうに泳いでいる。 鯉の背中を飽きずに眺めていると、やがて背後から峻定の声がした。 「いま餌を持ってこさせよう」 「峻定様…」 峻定は笑っている。 「なんだ、池を見たかったのか」 玲韻は小さくうなずき、すぐ赤くなった。 池を見たいなんて、子どもじみた願いのような気がしたのだ。 だが峻定は、ほほ笑みを浮かべたまま玲韻を見つめている。 それから峻定は、自ら庭を案内してくれた。 鯉に餌をやりながら、橋を渡り向こう岸へ向かう。 餌をまくと鯉が勢いよく近づいてきて、その勢いに玲韻がびっくりして思わず後ずさると、峻定は笑って大丈夫と言ってくれる。 峻定と一緒にいるだけで、玲韻は胸があたたかくなった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |