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真珠の声

玲韻はただ、床を見つめていた。
黒く光る床を目に映していた。
うつむいたまま立ち尽くす玲韻の耳に、すぐに腹立たしげな皇帝の声が届いた。
「なぜ歌わぬ」
するとそこに、聞き覚えのある声がかぶさったのだ。
「父上」
その声に、玲韻ははっと我に返った。
それは峻定の声だったからだ。

峻定は正面左手にいて、席から立ち上がったところだった。
立ち上がって、こちらにやってきたところだった。
「歌わなくていい」
峻定は、今もまたそう言った。
そして、自分をかばうように立ってくれると、正面に向かって言った。
「父上、歌姫一人にこだわるのはいい加減におやめくださいませ。第一、何度も申しましたでしょう、この娘は今は歌えないと。唯一の肉親である姉を亡くしたばかりなんです。歌う気になどなれなくて当然です」
「ここへ参ったということは、歌うつもりで参ったのだろう」
「無理やり連れて来られたに決まっているではありませんか。とにかく父上、今はもうこの娘を解放して差し上げてください」
「歌ったらどこへでも行くがいい。このわしが聞いてやろうと言うのに、なぜ歌わぬのだ」
「ですから、今はとても無理です。歌わないのではなく歌えないのです。ああ、ではわかりました」
峻定は言った。
「父上、では私がこの娘を歌わせてみせましょう」
「ほう?」
皇帝の声色が変わった。
「それは面白いな。歌わない歌姫を歌わせる、面白いではないか。やってみるがよい。見事わしの前で歌わせることが出来たなら、ほうびを取らそう。何でも望むものをやろう」
「ではこの娘を連れて行ってよろしゅうございますか?」
「そういうことであれば連れて帰るがいい」
「ありがとうございます。じゃあ玲韻、帰ろう」
峻定はそう言うと、玲韻の背を押して皇帝に背中を向けた。
ずっとうつむいていた玲韻に、皇帝の姿は見えない。
だがそのすぐ隣に、女性がいたことはわかった。
女物のきれいな衣装の足元が見えた。

宰相が、面白くなさそうな顔をしているのも見えた。

広間を出るとすぐに峻定は話しかけてくれた。
「大丈夫か?」
「はい、おかげさまで…。本当に、ありがとうございます」
玲韻のかすれた声を聞き、峻定は悲しそうに顔をしかめた。
「おまえに歌わせようなど、父上もどうかなさっている。都にはいつ着いた?」
「つい先程です」
「つい先程?じゃあ疲れているだろう、まずは休め」
峻定はそう言うと、玲韻を自分の住まいに連れて行ってくれた。

峻定が現在住んでいるのは、都の街中にある大きな屋敷だった。
彼は今夜、屋敷から宮中まで馬車で来ていた。
その馬車に玲韻も一緒に乗せてくれたのだ。

衣装を着替え、元の質素な服に戻った玲韻は、遠慮がちに峻定の隣に乗り込んだ。
彼の命で馬車は動き出す。
「ここまで呼び立てて、本当に父上がすまないことをした」
「いいえ!とんでもない…」
慌てて首を振った玲韻だったが、そこでうなだれた。
「歌えればよかったのですが…」
「無理はするな。そう、父上には、おまえのことは説明したんだが…。そもそも本当は、父上がお聞きになりたいわけじゃないんだ」
「ではどなたが…?」
すると峻定は、苦々しげな口調で教えてくれた。
「父上の隣に、女がいただろう、あの女のためだ」
確かに、女性がいたらしいということは玲韻も見ていた。

「父上はいま、あの女の言うなりだ。もっとも、正確にはあの女の言いなりではなく、父上が勝手に女の機嫌を取っているだけだが。あの女は狡猾なことに、自分は何も言いやしない。言っているのはあの女の兄だ。さっきも父上の隣にいたが」
「もしかして、宰相さまのことですか?」
「会ったのか?」
「ここへ来てすぐにお会いしました。この声を聞いていただいたのですが…それでも歌うようにと…」
峻定は呆れたように首を振った。
「あの男は、妹が父上の寵愛を受けているのをいいことに父上に散々取り入っている。そのあげくに、今は宰相の座について国政を自分のいいように操っている。
なにしろ父上は、あの女に夢中なんだ。政務にも身が入らず、日がな一日あの女のご機嫌を取り結んでいる。まつりごとはすべてあの男に任せきりだ。おまえの件だって、初めにおまえの噂を父上のお耳に入れたのは宰相だ。そうしたら父上が、あの女を喜ばせようと無理に呼び立てたんだ」
そうですか、と玲韻はうなずいた。
「おまえは歌えないということを話したが、父上は聞こうともなさらなかった。今の父上には、女の機嫌が何よりも最優先だからな。以前であれば、こんな状況のおまえを無理やり呼び寄せようなどとなさらなかったのに。あの女がそばにいるようになってから、父上は変わってしまわれた。あの女を遠ざけるよう、そして国政を私しているあの宰相を遠ざけるようどんなに訴えても聞く耳をお持ちでない」
峻定は端正な顔をしかめ、小さくため息をついた。

馬車は静かに都の大通りを駆け抜ける。
屋敷に着くと峻定は、侍女を呼び玲韻に食事をさせるよう言いつけた。
しかし用意された食事を、玲韻はあまり口にはしなかった。
姉が亡くなって以来、食欲も落ちてしまっていた。

「道理でやせたはずだ」
食事を終えた玲韻のもとにやってきた峻定は、心配そうに顔をしかめた。
「無理をしてでも食べねば体が持つまい」
玲韻は確かに、以前よりもやせてしまっていた。
「食べたくなくて…。せっかくご用意していただきましたのに申し訳ありません…」
峻定がやってきたので立ち上がっていた玲韻に、彼は座るよう声をかけた。
それで、玲韻が遠慮がちに椅子に腰を下ろすと、彼も玲韻の向かいにあった椅子に腰を下ろした。
「欣芸の長官から書状が届いている。おまえはきっと歌えないから、俺から父上にそのことを説明してほしいということだった。おまえのことをずいぶんと心配しているようだ」
「旦那様が…。ええ、わたしはもうずっとこんな声なのです。ですので、旦那様は今回のお話に反対してくださったのですが、陛下のご命令とあっては…」
「それはそうだ。断れるわけなどあるまい。それなのに」
峻定はいまもまたため息をついた。
しかし、すぐに玲韻には笑顔を向けた。
「ああ、だがもう大丈夫だから。二、三日ここでゆっくりするといい。そうしたら、欣芸に帰りなさい」
「え?」
帰っていいのだろうか?
「ですが、峻定様は先程…」
自分を歌わせてみせると言っていなかったろうか?
だからこそ皇帝は、歌えなかった自分を許したのに。
「父上に言ったことか?おまえを歌わせると」
玲韻がうなずくと、峻定は笑った。
「あんなこと気にするな。あの場はああでも言わねば、父上はおまえを解放しなかっただろうから言っただけだ」
いいのだろうか?
「でも、そうしたら峻定様が…」
皇帝に何か言われるのではなかろうか。
「俺は大丈夫」
峻定の笑顔は確かに、あんな些細なことどうでもいい、と語っていた。
「とにかく、食べられないならせめてゆっくり体を休めろ。ここは何の気兼ねもいらないから」
「ありがとうございます…」


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