真珠の声 参 「ああ玲韻、大変なことになった」 峻定が帰京してしばらくたったその日、長官に呼ばれて屋敷に向かった玲韻に、長官は信じられないという様子で告げたのだ。 「おまえの声を、陛下がお聞きになりたいとおっしゃっているそうなんだよ」 「陛下?」 「皇帝陛下だ。都にいらっしゃる」 「え?」 「どうやらあの晩のおまえの声を聞いた人々の口から広まったらしい」 姉のために最後に歌った声を、街にいた峻定の随員たちも耳にしていた。 彼らが都に帰って、広めたらしいのだ。 欣芸には素晴らしい声の持ち主がいると。 それが、皇帝の耳に届いたそうなのだ。 「そ、そんな…。わたしはもう歌えません」 玲韻の声は、今もなおかすれたままだった。 あれ以来まったくよくなっていないのだ。 「声でさえこうなのです。歌などとても無理です。それに、歌えたとしてももう歌う気には…」 長官はうなずいた。 「わかった。その旨、きちんと書状にしたためておこう」 長官は返書に、玲韻の現状を書きつづった。 するとなんと、都から医者が派遣されてきたのだ。 「姉君を亡くされた悲しみでお声が出なくなってしまったとのことですが」 医者を連れてやってきた都からの使者が言った。 「陛下がおっしゃるには、単に気持ちが理由であれば、その気になれば歌えるはずだと。ですので医者に見立てさせ、のどに異常がないようでしたら、とにかくお連れするようにと」 「そんな」 長官は反対してくれた。 「軽々しくおっしゃらないでください。この子は姉妹二人きりで生活していたのですよ。その姉を亡くした悲しみは、気の持ちようでどうにかなるものではございません。しかもまだ日も浅いのに」 「陛下のお言葉なのです」 「……」 「旦那様」 黙ってしまった長官に、その場にいた玲韻が声をかけた。 するとその声を聞いた使者は、かすれた声に驚いた様子だった。 「その声は…」 「ですので、書状でお伝えしたとおりです。とても今は無理です」 「…ではとにかく医者に」 「どんな名医に診てもらっても治るものではございません」 「陛下のご命令なのです」 「旦那様」 玲韻は笑って首を振った。 「わたしのことはお気になさらないでください。とにかく、そういうことでしたらお医者様に診てもらいます」 「玲韻…」 皇帝の命令に従わないわけにはいかない。 自分のせいで、長官に迷惑は掛けたくなかったのだ。 玲韻ののどを診た医者は、特に異常はないと言った。 「そうなりますと、一緒に都に来ていただくことになります。単に気持ちの問題ですから」 使者は言う。 長官は渋ってくれたが、あまり反抗すると長官の立場が悪くなりかねなかった。 使者は何しろ皇帝の使者なのだ。 玲韻は長官に言った。 「旦那様、わたしは都に参ります。この声をお聞きになれば、きっとおわかりいただけるかと思います。とても歌えたものではないと」 「玲韻…」 使者が席を外した後、長官は大きくため息をついた。 「陛下にも困ったものだ。いってしまえばたかが歌姫一人のことにこんなに固執なさるとは。以前の陛下であれば、こんなことはなさらなかったろうに」 「とてもご立派な方だったとか」 玲韻が伝え聞くところでは、皇帝は以前は大変な名君と評判で、国内をよく治めていたそうだ。 だが今は、昔ほど政治に興味はなくなり、側近にすべてを任せきりだという。 実際に国を動かしているのは、その側近だという。 「そう、以前はな。大変ご立派で、下々のものまで陛下の徳をほめたたえたものだった。だがある女性をたいそうお気に召すようになって以来、明けても暮れてもその方のことばかりお構いなのだ。さらにはそのお方のお身内を要職につけ、政務はほとんどその方にまかせきりだ。峻定様は毎日のようにご諫言なさっているそうだが、もはやそれもうるさいとしか思われないようだ」 「そうですか…」 「峻定様がここへいらしたのだって、どうやらうるさい峻定様を少しの間だけでも遠ざけようと画策したからのようだし。峻定様がいらっしゃらない間、陛下はその女性らを伴ってお近くの離宮で遊興三昧だったそうだ」 それには玲韻も目を丸くした。 そんな事情があったとは。 峻定もさぞや気がかりなことだろう。 長官も顔を曇らせた。 「峻定様もお気が休まる暇がないだろうに…」 「おまえ、生まれは都だそうだな」 明日出立という晩、玲韻は長官の屋敷に泊めてもらっていた。 長官は夕食後、玲韻を部屋に呼んだ。 「ええ、父がそう申しておりました」 「そうか。そうだな、それは私も聞いている。…母親のことは、何か?」 「母?」 突然母のことを言われ、玲韻は首をかしげた。 玲韻には母の記憶がほとんどない。 とてもきれいで、そして優しかったということくらいだ。 父が言うには、母は玲韻が三歳のときに死んでしまったそうだった。 そのときまで一家は都にいたそうなのだが、母が死んだのを機に父はこの欣芸にささやかな官を得て、ずっとこの地で働いていた。 「母はわたしが三つのときに死んだそうですが」 「そうか…。いや、おまえの父親が、おまえにそう話しているのも知っている。だが…」 そこで長官は首をひねった。 「どうも、おまえの母親はまだ生きているようなんだよ」 「え?」 「ああ、正確には、おまえの父が健在だった二年前はということだが。生きて、都にいるようなんだ」 「都に?」 長官は話し出した。 「実は、このことはおまえの父親からは口止めされていた。だがおまえが都に行くにあたり、もしかしたら知っておいたほうがいいかもしれないと思ってな。 おまえの父親史淵由(し・えんゆう)は昔、都で役人をしていたのだが、将来を嘱望された相当優秀な官僚だったようだ。本来、こんな街で小役人などしているほうがおかしいほどのだ。 それが、本人は望んでここへやってきたそうだ。何の落ち度もないのに自ら望んで都落ちしたそうなんだ。 以来、何度も都からは戻るように言われていた。だが本人はそのたびに断っていた。 これは私の推測なのだが、おまえの父親と母親は、おまえが三歳の頃に何らかの事情で別れることになった。父親は、おそらくそのことが原因で都から離れたいと思い、この街に来たのではなかろうか。 役人としての出世を捨ててまで都落ちをしたのだから、よほどの事情だろう。 娘であるおまえに、母親は死んだと言わねばならないほどの。 だが実際は、母親は今も都にいるようなんだよ。だからおまえの父親は、都には戻らなかったのではなかろうか」 「……」 都には母親がいるかもしれないなんて。 母親がもしも、生きているのだとしたら。 父親が死んだと言い切っていたということは、確かに、よほどの事情があるのだろう。 ただ、ずっと死んだと信じていた母親が、実は生きているかもしれないと急に聞かされても玲韻には実感がわかなかった。 どこか他人事だった。 それよりも、気になるのは峻定のことだった。 都に行けば峻定にまた会えるのだ。 皇帝が呼んでいるというのなら、その皇子である峻定にも会えるだろう。 これは確実なことだ。 でも、まだとても歌う気にはなれないのだけれど。 ただ、少しでも顔が見られたら。 [*前へ][次へ#] [戻る] |