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真珠の声

廊下を進み廻廊を渡り、やがて玲韻は広間の入り口に着いた。
中の熱気が伝わってくる。
すぐに扉が開く。
入り口の近くに座している人々が、ほう、と声を上げる。
「この娘が、噂の『真珠の声』の歌姫ですな」
「なんと、鬼神をも感じさせるほどだとか」

「さあ玲韻」
上座のほうから長官の声がする。
「峻定様、これがその歌姫でございます」
玲韻はうつむいたまま広間の中央へと進んだ。
奥の上座には長官と、そしておそらくは主賓である峻定がいるはずだった。
広間の端に陣取っている顔なじみの楽士たちが、青い顔の玲韻を心配そうに見つめる。
玲韻は、上座の前でひざまずいた。
「玲韻にございます。お目にかかれて大変光栄に存じます……」
そう言ったつもりではあった。
だが実際、玲韻の口から声は出ていなかった。
峻定の随員たちがざわめく。
目の前の峻定らしき人物が、自分をじっと見つめているのがわかる。
「さ、さあ玲韻、まずはおまえの声を聞いていただきなさい」
長官がわざとらしいほどに明るい声でそう言う。
楽士たちが楽器を構え、音色を奏で始める。
玲韻は立ち上がった。
そして顔を上げると、正面は素通りして天井を見上げた。
息を吸い込んだ。

だが出てきたのは声ではなく、涙だった。
「もういい」
そう言う声が広間に響いた。
伴奏がやむ。
「事情は耳にした。無理に歌わなくてもいい」
声は正面からだ。
涙でにじむ玲韻の視界に、正面にいる青年がほほ笑んでいる様子が映った。
まばたきをして涙を落とすと、立派ないでたちの青年が長官の隣に座っている。
その青年こそ、峻定だった。
峻定は、玲韻に向かってほほ笑んでいた。
「こんなところにいる暇があったら、早く帰って姉のなきがらのそばにいてやりなさい。私のせいで、悪かったね」
「……」

事情を知っていたのだ。
長官が慌てたように峻定に声をかける。
「峻定様、ご存じだったのですか」
「耳に入ってきた。おまえにも嫌な役回りをさせてしまったようだ。無理に連れてきたのだろう?」
その言葉に長官も涙ぐむ。
峻定はもう一度玲韻にほほ笑みかけた。
「玲韻、今は早く戻りなさい。いつの日か機会があったら、そのときにこそ私のために歌ってほしい」
玲韻の目に、改めて涙が浮かんだ。

そう、今は無理でも、いつの日か。
自分なんかを気づかってくれたこの方のために歌いたい。

玲韻はうなずいた。
うなずく拍子に、頭上の真珠がゆれる。
そして同時に、涙がこぼれた。
涙の珠は頬を伝い、あとからあとからこぼれ落ちた。

その夜更け、欣芸の街に透き通った歌声が響き渡った。
玲韻が、姉のために歌う声だった。
翌朝、街はその美しくも悲しげな声の話題一色に染まっていた。

だが当の玲韻の声は、その晩以降出なくなってしまっていた。
風邪を引いてのどでも痛めたかのような、かすれた声しか出なくなってしまったのだ。
話し声でさえそうなのだから、歌うことは無理であった。
街の人々は皆がっかりしたが、玲韻は構わなかった。
もう姉はいないのだから。
声を聞かせたい人はもういないのだから。

声が出なくなった原因はおそらく、姉がいなくなったことだった。
もう一生会えなくなったことだった。

峻定は、数日間欣芸の町に滞在して都へと戻っていった。
出立前夜には送別の宴も行われ、本来だったら玲韻も当然呼ばれるはずだったが、呼ばれることはなかった。

そして帰京の日、立派な白馬にまたがっている峻定を、玲韻は街の片隅から見送った。
だがちょうど玲韻の前を通ったとき、峻定がこちらに気付いたのだ。
「玲韻」
峻定は馬を止めた。
峻定が止まったので、一行も停止する。
彼はわざわざ馬から下り立った。
「大丈夫か?あれから声が出なくなってしまったという噂を耳にしたが」
玲韻は笑ってうなずいた。
「大丈夫です」
笑顔には安心したようだったが、大丈夫と言うその声には、峻定は顔をしかめた。
かすれた声は、あまりに痛々しかった。
「……無理はするな。体を大事にしろ」
玲韻はうなずいた。
「ご心配ありがとうございます。峻定様こそ、道中お気をつけくださいませ」
その言葉に峻定もうなずいた。
そして、再び馬にまたがると、最後に玲韻に笑顔を向けた。
「……おまえがいつか幸せになるよう、都から祈っている」
峻定はそう言い置くと、再び手綱を握りなおした。

いつの日か、と峻定は言った。
いつの日か、歌ってほしいと。
自分だって歌いたい。
自分などにまで優しく接してくれる峻定のためになら、ぜひ歌を聞かせたい。
だがきっと、そんな日は来ないだろう。
自分はきっとこの街でずっと過ごすのだろうし、峻定が二度もここに来ることはないだろうから。
もう会うことさえないだろう。

一行が遠ざかっていく様子を、玲韻はじっと見つめていた。

だが、その日は訪れたのだ。


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