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真珠の声
十二(完結)
不意に広間に響き始めた歌声に、その場にいた人間はみな、初め何が起こったのかわからずに辺りを見回した。
歌声は、広間の入り口にいる娘のものだった。

透明な歌声は広間いっぱいに響き渡り、すぐに外へあふれ出す。
柔らかな響きは夜の空に舞い上がり、星となってまたたく。

「真珠の声だ」
誰かがつぶやいた。
柔らかく輝く真珠のように、歌声は優しく響き、やがて闇にとろけるように消えていった。

「陛下」
玲韻は、よく通る声で上座の皇帝に向かって訴えた。
「峻定様は関係ございません。峻定様はむしろ、夫人のお体を案じていらしたんです」
「峻定が?」
玲韻は、ゆうべのことを話そうとした。
それはつまり、自分が夫人の娘であることを告白することでもあった。
そのとき、夫人が細い声で口を開いたのだ。
「陛下、わたくしは大丈夫です」
「友菊」
医者は先程何かの薬を飲ませたようだったが、そのせいか夫人の顔には徐々に血の気が戻ってきていた。
「その子の歌声を聞いたら…ああなんてすばらしい声なんでしょう。玲韻といったわね」
夫人が手を伸ばそうとするので、玲韻は慌ててそばに近づいた。
「おか…」
「玲韻」
夫人はほほ笑みを浮かべて首を振った。
「お歌がとても上手ね」

それは、母親としてほめてくれたのだと、玲韻には感じ取れた。
口ではきっぱりと否定しても、この人はちゃんと自分を娘だと思ってくれているのだ。
大切な娘だと。

玲韻もほほ笑んだ。
「ありがとうございます…」
「陛下、わたくしは少し部屋で休みとう存じます。せっかくですから、宴はこのまま続けてくださいませ」
「ああ、そうだな。それにしてもよかった、一時はどうなるかと」
皇帝は、もう峻定のことなど気にも留めていないように見えた。
気にも留めずに、夫人を支えながら広間から出て行こうとした。
だがそこで、夫人が言ったのだ。

「陛下。陛下は以前峻定様に、この子を歌わせたらほうびをとおっしゃっておりましたわね、あれはどう…?」
「ああ…」
夫人に言われ、皇帝は思い出したように峻定を見やった。
峻定は、この騒ぎの中まったく動揺の色を見せていなかった。
いまも、父帝に呼ばれ、何事もなかったようにそちらを見やった。
「そうだったな、確かに、この娘を歌わせたら何でもやろうと言ったな。見事に歌わせることができたわけだ。何がいい」

「ああ…。では」
峻定は、一瞬考えたあと口を開いた。
「物は何もいりません。ただどうか、私の話をお聞きくださいませ」
その答えに皇帝は、初めは呆れたように峻定を見つめた。
「おまえは、この期に及んでなおもそういうことを…」
だがそこで不意に言葉を切ると、峻定から目をそらした。
そして、何かを考えているようにしばらく黙りこくった後、ため息を一つついた。
「…わかった。あとで部屋に来なさい」

皇帝が夫人以下数人を伴い出て行くのを見届けて、峻定は広間に声をかけた。
「さあ、では仕切りなおしだ。音楽を」
峻定の命に、楽士たちが曲を奏で始める。
そして峻定は続けて、玲韻に声をかけた。
「玲韻、どうか歌ってくれるだろうか」
玲韻はうなずいた。
そして、涼やかな声で返事をした。
「はい」

峻定のために。
峻定のために歌おう。
大切な人のために。

広間の中央に立ち、息を吸い込む。
音楽に合わせて、玲韻の歌はやわらかに始まった。
よく伸びる透明な歌声が響く。
つい先程までは話す声も枯れていたのに、歌声は澄み切ってどこまでもきらめいてゆく。
歌声を聞いた者は、玲韻の声がつい先程まで出なかったなど、思いもよらなかっただろう。

「なんと美しい」
「これが噂の『真珠の声』ですな」
「鬼神をも感じさせるという、まさにそのとおりではございませんか」

気付くと、宰相もいつの間にか座から姿を消していた。

夫人の杯に毒物を混ぜたのは、どうやら宰相らしかった。
自分の意に反した妹に対する脅しのようだったのだが、夫人は、今度は兄をかばってそれを真っ向から否定した。
夫人が否定したのだから、皇帝も信じなかった。

その夜、峻定が屋敷に帰ってきたのは日付がとうに変わった頃だった。
宴は、玲韻の歌声の披露のあとに間もなく開いたのだが、それからずっと峻定は父帝と話していたのだった。
先に帰邸していた玲韻が出迎えると、峻定は少し驚いたようだった。
「まだ起きていたのか。先に休んでいてよかったのに」
「でも…」
玲韻の声は、もうすっかりもとに戻っていた。
小さなつぶやきに峻定はほほ笑むと、その背を押して部屋に向かった。

峻定の部屋で玲韻は、皇帝が、峻定の言をすべて聞き入れたことを知った。
そしてさらに、峻定への譲位を決めたことも。
夫人の体も、しばらく休めば大丈夫だそうだった。
「譲位を…そうですか」
皇帝が譲位したら、宰相ももう二度と権力を手にすることはないだろう。
「宰相の件は特に触れなかったが、どちらにせよ後ろ盾だった父上が譲位なさるのだから。夫人の体調が落ち着いたら、離宮に移るそうだ」
玲韻がうなずくのを見て、峻定は続けた。
「俺も二、三日中にこの屋敷から宮中に移らねばならない。だから、おまえのお気に入りの池ともお別れだ。だが宮中にもきれいな池があるから、きっと気に入るだろう」
「え…?」
峻定は言った。
「欣芸に帰れなくともよいだろうか」
「…?」
それはどういう意味かと、玲韻は彼を見つめた。
すると峻定もまた、玲韻をじっと見つめ返して口を開いた。
「一緒に来てほしい。そして今後も、ずっとそばにいてほしい」
「峻定様…」
「欣芸で別れるとき、俺は、おまえの幸せを祈ると言った。だが、あの言葉は撤回する」
峻定は、玲韻を強く抱き締めた。
「俺が、おまえを幸せにしてみせる」

峻定の腕の中はあたたかかった。
熱いくらいだった。
「あの晩、欣芸で、俺はおまえの声を聞いた。悲しげで、でもとても美しく…出来ればもう一度聞きたいとずっと思っていた…」
峻定は腕の力をふとゆるめると、玲韻の唇を指先でそっとなでた。
「声が戻ってよかった…」
玲韻は赤くなって目を伏せた。
「それにしても、なぜ?」
「わかりません。ただ、峻定様のためにと…」
玲韻はそこで、頬を赤らめたまま峻定を見つめた。
「これからずっと、峻定様のために歌ってもよろしいですか?峻定様のためだけに」
峻定はほほ笑んだ。
そして今度は、自らの唇で玲韻の口元を覆った。


(完)




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