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真珠の声

屋敷に戻ると、峻定には来客があった。
それは峻定と同様に、皇帝の現状を憂えている人物たちだった。
董夫人にだけ興味を示し政務を放り出している皇帝に、彼らはみな本当は嘆き、悲しんでいるのだった。
このままでは皇帝の名声は完全に過去のものとなり、あとにはただ、女にうつつを抜かし国政をかえりみなかった暗君という評判しか残らなくなるのだから。

玲韻がお茶を出しに行くと、どうやら客人たちは穏やかではない話をしていたところのようだった。
皇帝はもう聞く耳を持たない、このままでは、力づくで譲位をうながすしかないと。


それはその晩のことだった。
玲韻に来客があったのだ。
客は女性だという。
しかも宮中からだという。
今の自分に用があるのなら、峻定を通すはずだと思うのだが。
心当たりもまったくない。

峻定の判断をあおぎたかったが、彼は来客と会っているそうだった。
それで玲韻は、ひとまず会ってみることにした。

部屋に入っていくと、そこには黒い外套をはおった女性がたたずんでいた。
結い上げられた黒い髪には一つの飾りもない。
黒い外套の下に着ている服も、きわめて地味なものだ。

その女性に、玲韻は見覚えがあった。
見覚えがあるも何も、今日会ったばかりだった。
それは昼間会った、董夫人だったのだ。
そして彼女は、入ってきた玲韻を一目見るなり涙を浮かべたのだ。
「玲韻…」
「あ、あの…?どうしてこちらに…?」
玲韻はどうしたらよいのかわからず、今入ってきた扉を開けて外に出ようとした。
「いま峻定様をお呼びして…」
「玲韻、昼間はごめんなさい。ああ言うしかなかったの。いいえ、ああ言ったほうがいいと思ったの」
玲韻は振り返った。
夫人の頬には既に、涙が幾筋も伝っていた。
「あなたは私の娘ではないほうがいいの。こんな私なんかの娘ではないほうが」
「……」
「こんなに大きくなって…。もう二度と会うことはないと思っていたのに」
夫人はそう言うと、玲韻の前に歩み寄った。
そしてそのまま玲韻をしっかりと抱き締めたのだ。

抱き締められた瞬間、玲韻は確信した。
やっぱりこの人は、自分の母親だと。
「あなたのお父様が亡くなってしまっていたなんて知らなかった。あなたのお姉様のことも…。あの子は生まれたときから体が弱くて…」
「おかあ…」
だが、おかあさまという言葉には、夫人はきっぱりと首を振った。
「違う。私はあなたの母親ではないの」
「どうして…どうしてそうおっしゃるんですか?」
すると夫人は玲韻を見つめた。
だがそれは、問いに答えるためではなかった。
玲韻を見つめ、つらそうに顔をしかめた。
「声を失ってしまうなんて…。一人になってしまって、さぞや寂しかったでしょう。本当にごめんなさい。あなたを産んだのは間違いなく私なのに、悲しいときにそばにいてやれなくて」
「……」

そのとき、扉が外から開いた。
玲韻が振り返ると、それは峻定だった。
その顔には、不愉快そうな表情が満面に浮かんでいた。
「なぜあなたがこちらにいらしたんですか」
董夫人は、峻定に対し深々と頭を下げた。
「わたくしは、ずっと兄の言うとおりに生きてまいりました。この子の父親と別れたのも、陛下のところに参ったのも、すべて兄の言うがままでございました。でももう、疲れてしまったのです」
峻定の表情がゆるんだ。
「ただただ、気になっていたのはこの子たちのことでした。ですが、父親は亡くなり、上の娘ももうこの世にはいない…。そうなると、玲韻のことだけが心配です。どうか、玲韻のことをよろしくお願いいたします。この子が無事なら、わたくしはもうどうなっても構いません」
「それはどういう意味ですか」
しかしその問いに、董夫人は首を振っただけだった。
「よもや変なことを考えているのではございませんでしょうね。父上はいまや、あなたがいないと生きてはいけないのに」
「兄のしていることは、許されないことでございます。ですがわたくしには、兄を止めることはできません。今のわたくしにできることは、ただ、この子とわたくしが無関係だと言い切ることだけなのです。ですからどうか、この子をよろしくお願いいたします」
「しかしあなたが玲韻は娘ではないと言い切ったせいで、宰相はあなたに対し腹を立てているそうではありませんか?せっかく利用できそうな駒が手に入るところだったのに、あなたのせいで使えなくなったと」
すると、董夫人は言ったのだ。
「娘まで利用されたくはございません」
玲韻は、その言葉に夫人を見つめた。
その玲韻に、夫人はほほ笑みかけた。
「あなたはお父様そっくりね、すぐにわかったわ」

確かに玲韻はよく、父親に似ているといわれていた。
そして、玲韻は今初めて気付いたのだが、母親に似ているのは、姉であった。
「お姉様はとても優しくて、とてもきれいな人でした。お母様にそっくりでした…」
「……あの子のことも、もう一度抱き締めてやりたかった」
夫人はそう言い、もう一度玲韻をしっかり抱き締めた。
そして、もうそれきり玲韻を見ようともせず、部屋から出て行った。
「おかあさ…」
思わず後を追おうとした玲韻を、峻定が腕を伸ばして抱き留めた。
「峻定様…」
峻定は、玲韻に対し首を振ってみせた。
「おそらく、夫人はもう二度とおまえを娘とは認めないだろう。それより」
彼は顔をしかめた。
「夫人の身が心配だ。本人も覚悟をしているようだったが、宰相が一体何をしでかすか。夫人に相当立腹しているそうだから」
「え…?」
一体何をすると言うのだろう?
「夫人は大事な手駒だからな、命を奪うことまではしないだろうが…」
峻定は人を呼ぶと、董夫人の身辺をよくよく警護するよう命じた。

「明日、父上はまた宴を催すそうだ」
部屋に二人きりになったところで、峻定がそう言った。
「宰相が言い出したそうだ」
「その場で、わたしに歌うようにと…?」
峻定はうなずかなかったが、そうに決まっているだろう。

ちょっと一曲歌えばそれですべて済むのに。
でもそう思っても声は出ない。
そもそも、歌とはどうやって歌うものだっただろうか。
いまだにまったく思い出せない。

自分が歌わないことで、皇帝はまた峻定を責め立てるだろう。
今日だって、もしあのとき董夫人が頭痛がすると言わなかったら、どうなっていたことか。
険悪な雰囲気は、まさに一触即発という感じだった。
明晩、また自分が歌えなかったらどうなるか。

宰相が発案した宴ということは、宰相はその場で何かをしでかすつもりなのかもしれない。
峻定のことを気に入らない宰相が、皇帝をけしかけて、峻定にとって不利な発言をそそのかすかもしれない。
それに夫人のこともある。
何もなければよいのだけれど。

床の一点を見つめている玲韻に、峻定が声をかけた。
「大丈夫、おまえはここにいなさい」
確かに歌えないのなら、行っても無駄だろう。
でも。
「峻定様、どうかわたしもお連れください」
「たとえ歌えたとしても、歌う必要はない」
「峻定様のことが心配なんです。それに、あの…母のことも…」
峻定は、そう言った玲韻を見つめた。
「本当は、歌えればよいのですが…。歌えない以上、わたしは何のお役にも立てません。でもせめて、峻定様のおそばにいたいんです。どうかわたしもお連れください」
「玲韻…」
峻定は、玲韻の目の前まで歩み寄った。
そうして、彼女を抱き寄せた。
「言っただろう、おまえは歌う必要はない。歌えなくてもいい。役に立つも立たないもない。ただ、そばにいてくれればそれでいいんだ」
「峻定様…」
峻定は、玲韻をきつく抱き締めると、その肩をつかんで自分から離した。
「わかった。じゃあ一緒に行こう」

峻定は、玲韻を侍女として伴うことにしてくれた。


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