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真珠の声

玲韻(れいいん)は、歌の上手な娘である。

彼女の住まう、都から離れた街欣芸(きんげい)において、その声は大変な評判となっていた。
柔らかく、澄み切った繊細な声は、一度聞いたら誰もがそのとりことなった。
そしていつからか人々は彼女の歌声を、「真珠の声」と評するようになっていた。
その声は鬼神をも感じさせると。

二年前、欣芸の街の役人をしていた父が亡くなって以来、彼女は姉と二人暮らしだった。
姉は病弱で、玲韻の歌声を聞くことだけを楽しみにしていた。
そして玲韻もまた、姉のためにと歌っていたのだ。
美しく優しい姉は玲韻の自慢だった。

彼女は本当は、大切な人のためだけに歌いたかったのだ。

欣芸の街の長官は、宴を催すたびに玲韻を呼んでその声を披露させていた。
長官は三年前にこの街に赴任してきたのだが、以来、部下である玲韻の父親にたいそう目をかけてかわいがっていた。
それゆえ、父亡き後も長官は、のこされた玲韻姉妹にとても気を配ってくれた。
その恩に報いるために玲韻は、呼ばれればいつでも出かけて宴に花を添えていた。
声を聞くと皆、言葉を尽くして玲韻をほめたたえる。
ほめられればもちろん、玲韻も素直にうれしかった。

でも玲韻は本当は、大切な人のために歌いたかったのだ。
自分の歌声が大好きだった父。
自分が歌うと笑ってくれた姉。

だからその日、玲韻は、もう歌うことをやめようと思ったのだ。
もう歌えない。

姉が亡くなったのだ。

玲韻の姉が亡くなったことは、欣芸の街にすぐに広がった。
みな、当然哀悼の意を示したが、同時に不安に思っていた。

今夜、長官の屋敷で宴が行われることとなっていた。
当然、玲韻は呼ばれて声を披露することになっていた。
普通の宴だったら、今夜はさすがに玲韻は来なくてもよいとなっただろう。
だが今夜はどうしても、玲韻を呼ばねばならない事情があった。
玲韻を呼んで、宴を華やかにし、客を盛大に歓待する必要が。

今夜の宴は、賓客を歓迎する宴だった。
皇太子峻定(しゅんてい)が都から視察にやってきたのだ。


日が西の山に沈む頃、欣芸の街の長官の屋敷で、玲韻は長官と向かい合っていた。
「玲韻、冷酷な願いであることは百も承知しておる。よりにもよって今日、おまえに歌うよう願うなど、人の心を持つ者のすることではない。だが玲韻、峻定様はそういう事情はご存じないのだ。遠路はるばるいらした峻定様に、少しでもよいからおまえの歌声をお聞かせしたいのだ」
「旦那様のおっしゃることはよくわかります」
玲韻は、蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「わたしも、ぜひ歌いたいとは思います。こんなに光栄なことはございませんから。ですが…」
そこまで言いうなだれた玲韻に、長官は、自分もつらそうに顔をしかめた。
「玲韻…」

玲韻は、長官には大変世話になっていた。
ちょっとやそっとの事情であれば、長官の願いを優先したかったし、現にそうしてきていた。

でもさすがに今夜は無理だ。
歌えない。

だが、それは長官を困らせることも玲韻にはよくわかっていた。

峻定が、自分の存在を知らなければ、無理をして出なくてもよかったろう。
だが長官は、既に自分の存在を峻定の随員に話してしまっていたのだ。

欣芸にはそれはそれは歌の上手な娘がいる、これほどの歌姫はおそらく都にもいまい、宴で披露させるから、楽しみにしてほしいと。

長官は都にいた時分、峻定と親しくしていたそうだった。
それもあり、歓待したい気持ちが強いのだった。

「わかりました…」
玲韻は青い顔でうなずいた。
「努力してみます…」

長官は顔をしかめてうなずき、玲韻を気にしつつ部屋を出て行った。

もう宴が始まるのだ。

長官が出て行くのと入れ代わりに侍女が三人やってきた。
一人は美しい瑠璃色の着物を、一人は真珠の髪飾りを、そうしてもう一人は化粧道具の入った箱を手にしている。
玲韻を着飾るためにやってきたのだ。

これはいつものことだった。
宴のとき、いつも玲韻はきれいに着飾ってもらった。

だが今日はとても、着飾る気になどなれない。

事情を承知している侍女たちは、つらそうに玲韻を見やったが、あえて何も言わずにいつものように作業を始めた。
広間のほうから管弦の音色が聞こえ始める。

無言で淡々と玲韻を飾り立てた侍女たちは、何も言わずに部屋を出て行った。
いつもなら楽しくおしゃべりをしながらなのに。

丸い鏡の中には、青ざめた顔の自分が映る。
白い髪飾り、青い着物。
そして青い顔。
口元の紅だけが毒々しいほどに赤い。

やがて、別の侍女がやってきた。
玲韻の出番なのだ。
だが彼女もまた、今は何も言わなかった。
玲韻も、何も言わずに立ち上がった。


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あきゅろす。
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