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不響和音 4 〜霧人side〜


自分にとっての牙琉響也を一言で言うなら「弟」だ。
幼い頃、交通事故で両親を失ってからはたった一人の家族であり、自分が護るべき存在だった。彼が生まれた時から自分はいつだって彼の隣にいて、護り生きていくのが自分の中の当たり前になっていて。

――けれど、


いつからだろう、そんな弟に自分は……










 自宅で一人っきりの夕食を終え、そろそろシャワーでも浴びようかとリビングのソファーから腰を浮かせたその時、テーブルの上に置いていた携帯電話がピリリ、と音を立てた。すぐさまそれを手に取り、相手の名前も確認せずに通話ボタンを押す。

名前を見なかったのは、見ずとも相手が誰だか見当が付いたからだ。この時間に電話がかかってくることは数ヶ月前からもう当たり前のことだったから。
長い話になるだろうなと容易に想像できたので、少しだけ立ち上がろうと腰を浮かせていたのだけど再びソファーに深く座りなおした。シャワーを浴びる前に片付けてしまおうと手にしていたティーカップも同様にテーブルの上に戻す。
気が付けば書類整理に熱中してしまいすっかり冷め切ってしまった飲みかけの紅茶が、ゆらり、小さな波を立てた。


「もしもし?」
『僕だよ。今大丈夫?』
「ええ。そろそろだと思っていましたから。」


特に約束をしているわけではないけれど、いつもこの時間に彼は電話をかけてきてその日あった事を報告するようになっていた。今日はどんな授業を受けた、とか今日はバンドのレコーディングの打ち合わせだった、とか。まるで子供が親に自分の事を話して聞かせるように、彼は毎日事細かに話してくれる。そうして自分はいつだってそれを黙って聞いていた。

毎日毎日欠かすことなく掛けられてくる弟からの電話。時には一時間を越える事もある長い長い会話のおかげで、離れていてもまるで隣にいるように彼の様子を知ることが出来た。
突然の留学。生まれて初めて彼と離れて暮らす事になったのだけれど…自分達は相変わらず「仲の良い兄弟」だった。

そんな弟の声を聞こうと、受話器に耳を澄ませる。


『今日はね、ビッグニュースがあるんだ。』
「おや、なんでしょう?」


受話器から聞こえる彼の声は弾んでいて、きっと満面の笑みを浮かべているのだろうなと容易に想像が付いた。
彼は自分と違って喜怒哀楽が素直に表に出る人間だ。それは人としては長所、けれど検事としてはマイナスになりうると彼がまだ日本にいた頃に話したことがあるのだが、彼はそれをやめようとはしなかった。というより、もうなおらないのだろう。早く報告したかったのだといまだ興奮冷めやらぬ様子の彼に、子供の頃から変わらないなと思わず笑みがもれる。

けれど、その笑みも長くは続かなかった。


『スクールの飛び級が認められたんだ。司法試験、予想以上に早く受けられるかもしれない。』
「……。」


彼の言葉に、胸の奥からある一つの感情が湧きあがってくる。
牙琉響也という人間を前にして、時折ふつふつと湧きあがる感情。何とか押さえ込みたくて、ふと目に付いた飲みかけの紅茶カップに手をのばした。この気持ちを流し込もうと手にしたカップを傾けコクリと一口含んだのだが…冷めた紅茶は己が心を鎮めることなく無常にも身体の中を流れていっただけ。心の中に湧き上がった気持ちを、動揺を、完全に鎮めることなんて出来なかった。


「そうですか。…それはよかったですね。」
『あれ、……アニキ、ひょっとして何かあった?元気ないみたいだけど。』
「…いえ、何でもないですよ。」


カチャリ、カップをソーサーに戻した音が妙に響く。
最近忙しかったので、少し疲れているのかも…苦し紛れにそんな理由を続ければ、彼はそれ以上動揺で擦れてしまった声について追求してこなかった。
それどころか、無理はしないでねと心配そうな声が聞こえてきて、自分の口からはまた笑みがもれる。

お人よしな彼は果たしてどこまで気付いているのだろうか。他愛もない世間話をしながらもその奥に隠されている自分の本心に。


いつからだろう、彼に……








憎悪の感情を抱くようになっていたのは。




 牙琉響也という人間は、天才だ。自分が必死になって歩んできた法曹界への道を、彼は今いとも簡単に歩んできている。趣味で始めた音楽活動だってその才能を買われ、メジャーデビューは目前。昔から彼は多くのものに興味を示し、その全てを恐るべき速さで習得していった。まるで遊びの延長のように、無邪気に笑ながら彼はなんだってこなしてしまうのだ。
両親をなくしてからというもの、しっかりしなくてはならない。常に完璧でいなければならないと周囲に求められ、必死にそれをこなしてきた自分。幼い自分達が生き抜いていくには大人たちと対等に渡りあっていかなければならなかったから。そんな自分に彼は今肩を並べようとしていている。自分がようやく立つことの出来た場所に、8つも年下の弟が立とうとしているのだ。

彼は知っているだろうか、常に前を歩かなければならないものの気持ちを。背後から迫りくるものがいかに脅威であるかを。もしも追いつかれ、追い越されてしまえば、その時点で自分は「完璧」ではなくなってしまう。それがどれだけ恐ろしい事なのか、彼にはきっとわからない。


「とにかく、おめでとう。また一歩検事に近づいたんですね。」
『うん、また一歩兄貴に近づいた。』
「ふふ、そうですね。」


今目の前に鏡があったのなら、きっとそこには冷酷な笑みを浮かべた男の顔が映っていることだろう。
この気持ちを悟られぬために口角を上げ、いつもと変わらぬ声を作り出す。けれどそこには憎しみという感情が渦巻いている。兄のこんな表情を、弟である彼は知らない。


「…早く帰ってこれるといいですね。」
『そう、だね。……アニキに会いたいな。』
「ええ、私も……会いたいですよ。」


この脅威は、この憎しみはどうすれば消えるのだろう?
幾度考えても答えは出ることなく、幾度試みてもこの想いは消えることなく。



とにかく今の自分は完璧な兄でいなければならないのだと、テーブルの上のカップに手をのばし、今にも爆ぜそうなこの気持ちごと冷めた紅茶を飲みほした。




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あきゅろす。
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