[携帯モード] [URL送信]
不響和音 2 〜響也side〜


ゆらり、ゆらり
波間を漂うような、地に足の着かないふわふわとした感覚。先ほどまで何か夢を見ていたような気がするけれど、よく覚えていない。ただ、いい夢だったような気がする。
だって今、あの人の側にいるときのような心地よい気持ちだから。





「ん…」

少しだけ肌寒さを感じて身をよじる。深い夢の中にあった意識がぼんやりと浮上してくれば、確か夢の世界に入る直前までリビングのソファーにいたっけ、とうっすらと思い出した。
閉じたままの瞳にうっすらと差し込んでくる室内灯の灯り。ちかちかと目蓋を刺激してくるその灯りのせいでどうやら再び眠りにつく事は出来そうになかった。
ふわふわとした心地よさと別れてしまうのは非常に勿体無い気がする。けれど、このままここで寝てしまっては風邪をひいてしまうかもしれないし、何よりソファーで横になるなんて無理な体勢を続けていれば体を痛めてしまうかもしれない。そろそろ目を覚まして、この温かな枕から頭を上げるべきなのだろう。


……枕?


ふと、自分がおかしな事を考えている事に気がついた。
今自分が横になっているのはリビングのソファーのはず。当然そんな場所に枕なんてあるはずがない。クッションを置いてはいるけれど、今頭に敷いているそれは確実にそのクッションとは固さが異なっていた。
ある程度の固さと、そして何故だかじんわりとした温かさを伝えてくるそれ。
心地よい夢の世界へと導いてくれたそれは果たして一体何だろうか。いまだぼんやりしたままの意識を覚醒させようと横になったままもう一度小さく身をよじり頭を振れば、答えは頭上から降ってきた。


「目が覚めましたか?」
「…!?」


自分の頭上、すぐ側から聞こえてきた声にまどろんでいた意識は即座に覚醒した。同時に全てを理解し硬直する体。
かぁっと頭に血が上っていくのがわかる、完全に目は覚めた、けれど目を開けてこの現状を直視する事は非常に難しい事だった。
だってありえない、こんな状況で眠ってしまっていたなんて。

恐る恐る目蓋を開ければ、そこには思ったとおりすぐ上から自分を見下ろすアニキの顔があった。


「響也、起きたのならいい加減膝からどいてくれませんか?」


じ、と碧い瞳が真っ直ぐにこちらを見つめる。それだけで、心臓は爆発しそうだった。
意識ははっきりとしたはずなのに、あまりの出来事に思考回路が上手く機能してくれない。バクバクと脈打つ心音がうるさくて、この状況に至った理由をまともに考える事が出来なかった。


「あの…、ごめん、どうしてこういう状況になってるの…かな?」
「お前がうつらうつら舟をこいで私の肩にもたれ掛ってきたのでしょう?しばらくすれば起きるだろうと思っていたのに、そのまま完全に寝入って人の膝を勝手に枕にしたんですよ。」
「……うわぁ…」


そういえば眠りに落ちる前まで、リビングでアニキと雑談していた記憶がある。話の内容は…そう、多分明日からのことだ。何故断言出来ないのかと言えば、途中で睡魔に襲われて記憶が曖昧だから……ではなく、アニキに見とれていて会話の内容が右から左に抜けていたからだ。
そんな相手の膝枕で今の今まで眠っていたなんて、実に勿体無い事をしてしまった。
どんないい夢だって、この現実に勝てるはずがないのだから。


「響也、起きたのならちゃんと寝室のベッドで…」
「あの、す、少しだけ、…あと少しだけこうしててもいい?アニキの膝枕、気持ちよくてさ。」



うるさい心音と戦いながら思い切って頼んでみれば、返ってきたのは「やれやれ」というため息交じりの肯定だった。
それ以上アニキは何も言わず、テーブルの上に手をのばしそこにあった書類に目を通し始める。きっと自分が眠っている間中そうしていたのだろう、テーブルの上に積みあがっている書類とファイルはどうやら近々行われる裁判の資料のようだった。
書類に阻まれてうかがい知ることは出来なかったけれど、きっと少しだけ眉間にしわを寄せて難しい顔をしてその紙を見つめているに違いない。仕事人間のアニキらしいなと思うけれど、家にまで仕事を持ち込むなんてこちらとしては心配になる。


「ねぇアニキ、今何時?」
「先ほど日付が変わりましたよ。」
「ぇ…」


書類から視線をそらすことなくサラリと告げられた事実に唖然とする。確かアニキとこのリビングのソファーに座って話をしていたのは夕食後の8時くらいの事だったはずだ。しばらく話をしていた記憶はあるが、そんなに長い時間ではなかったはず。
となれば、一体どれだけの時間この人はこうしていたというのだろう。


「アニキ、いくらなんでも働きすぎじゃないか?休まないと身体を壊す。」
「おや、誰の為にこうして今溜まっている仕事をしていると思っているのですか?」
「?」
「どうやら明日の見送りは必要ないみたいですね。」

「あ、」


言われてようやく気がついた。
そうだ、こうしてこの人の温もりを感じる事が出来るのも今日で最後なのだ。明日から…正確には後数時間後には自分は遠く離れた地へ留学する事になる。温もりどころかその姿すら間近で見ることが出来なくなってしまうのだ。


「見送り…来て、くれるんだ。」
「当たり前でしょう?たった一人の弟の大事な旅立ちの日ですからね。」


――明日の飛行機で発つから。
眠りに落ちる前にアニキと話をした。ちゃんと検事の資格を取って帰ってくる。今まで面倒見てくれてありがとう……がらにもなく、そんなかしこまった事までアニキに告げた。
それは、明日仕事で見送りなんて当然来れないだろうアニキ対する出発の挨拶…別れの言葉だったのだが。


「仕事より、お前のほうが大切ですから。」


手にしていた書類がテーブルに戻され、再びこちらを見下ろす優しい碧い瞳と視線が絡まる。その手が、そっと下ろされ前髪を優しく撫ぜてくれた。



あぁ…

あぁ、この人が好きだ。
たまらなく好きなんだ。そう思う瞬間。


上手く説明は出来ない、検事を目指すものとして情けないことだけれど、証拠も根拠も理由もない。けれど、自分はこの牙琉霧人という人が好きなのだ。……たった一人の兄なのに。
己が髪を優しく撫ぜてくれるその手が、向けられるその笑顔が、泣きたい位に愛おしい。


だから、距離を置かなければならないと決めたのだけれど。


「明日から、寂しくなりますね。」
「……ああ、そう…だね。」


その決意は、早くも崩れそうになっていた。





[前へ][次へ]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!