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作品1露ちゃん

あれは多分、兄と再会する少し前のことだったのだとリナリーは考える。その「少し」が数日だったのか、数時間だったのかはわからないけれど。
身も心も残酷に蝕んでいく現実からの逃走の果てに、暗い部屋の寝台に拘束された幼き日。実際に眼に映るものではなく、故郷での懐かしい思い出と、会いたい人の幻をただただ見つめるばかりだった、あの頃。

その日、久しぶりに視界と意識が結び付いた。しかしその二つを繋いだ糸はあまりに細かったようで、ひどく朧げな記憶だ。
一番に思い出せるのは、七色。かすかに黄ばんだ、しかしあたたかさの滲んだ紙に描かれていた、淡い青空に浮かぶ虹の絵だ。その絵画を誰かが、横たわるリナリーの顔の上に翳すようにして見せたのだ。おそらく彼女は反応らしい反応を返さなかったであろうに、腕が疲れたであろうに、長い時間、ずっと。
その時胸の中に去来した感情は何だったのか、リナリー自身にもわからない。ただ、心が動いたことは確かだ。彼女が閉じ篭っていた氷を、体温のような優しいぬくもりで、ほんの僅かながらも溶かしたのである。

「誰だったのかな…」

自室の整理をしていた際に姿を現した、画用紙であろう紙に描かれている虹の絵。忘れかけていた記憶を呼び起こしたそれを見つめながら、リナリーはぽつりと呟いた。薄暗い窓の外では、細く密やかな雨音が響いている。
この絵は、兄妹が再会を果たした時には既に部屋に有ったらしい。丸めた状態で窓辺に置かれていたそうだ。コムイはもちろん、リナリーの一応の体調管理を任されていた婦長も、この絵が誰によって彼女の許に持ち込まれたものなのか知らないとのことだった。
他にあの部屋に出入りしていた者なら、真相を知っていたかもしれない。だが彼らとはできることなら、もうどんなことがあっても関わりたくなかった。

素人が描いたとは思えない、おそらく様々な技巧が施されている絵。となればやはり画家としての顔も持つティエドール元帥による作品だろうかと、そんな憶測が当然のように浮かんだ。
だが当時から元帥たるエクソシストは教団を離れていることが多く、ティエドール元帥も例外ではなかった。そのためなかなか彼に会うことができず、会えたとしてもその時は訊きたいことを忘れてしまっていたり、話をする余裕などなかったり―――そうこうする内に月日は流れ、リナリーもまた任務や鍛練、そして室長助手としての仕事で忙しい日々を過ごす内に、その記憶が薄れていってしまった。結局あの絵に関して元帥から何も訊くことができないまま、今に至ったのである。

「う〜ん……」

もう一度あの時の記憶を辿ってみたが、やはりあの絵を見せてくれた人の顔はさっぱりわからない。眼を閉じて頭を抱えていたリナリーであったが、ふとその双眸を開かせた。今は確か、ティエドール元帥は教団に帰還しているはずなのだ。
せっかく思い出したのだし、良い機会かもしれない。丸めた絵を片手に、リナリーは立ち上がった。










そうして意気込んで捜し始めたのはよかったのだが、リナリーは早速困ってしまった。この広い教団の敷地中でティエドール元帥が何処にいるのか、さっぱり見当がつかないのだ。
クロス元帥ほど神出鬼没というわけではないが、彼はいつ何処でスケッチブックに筆を走らせていてもおかしくない。気に入ったものならその場で何でも描くので、なかなか一ヶ所に腰を落ち着けないのである。しかも元帥という立場にあるにも関わらず、以前には画材を買う資金が欲しいという理由で食堂のアルバイトをしていたような人だ。まったくもって行動が読めない。
だが、もしかしたら彼の弟子である人物ならその所在を知っているかも―――リナリーが神田の部屋を訪れたのは、そんな考えによるものだった。自室から近かった、というのもあるが。

「知らねぇよ」

しかし、相変わらず不機嫌そうな顔をしている神田にばっさりとそう言い捨てられ、彼女はため息をついた。

「そっか……何処にいるのかなぁ、あの人」
「…用があるなら、ゴーレムで呼び出せばいいじゃねぇか」
「うん、最初はそう思ったんだけど、すごく個人的な用事だからなんだか気が引けちゃって」

すごく個人的な、という言葉のところで神田がぴくりと眉を顰めたことに気付かないまま、リナリーは踵を返した。ティエードール元帥の居場所を知らないというのならば、長居は不要だ。それに神田は任務から戻ってきたばかりだと兄から聞いている。疲れて休息をとっていたのであろう彼の邪魔など、するべきではない。

「急に押しかけてごめんね。ゆっくり、」

ゆっくり休んでね、という台詞が、最後まで声として紡がれることはなかった。唐突に上腕を掴まれ、やや強引に神田の部屋へと引き込まれてしまったのだ。彼の思わぬ行動にリナリーの身体はよろめいたが、神田はさして気にする様子もなく部屋の奥へと彼女を引っ張っていく。
しかし動作こそ乱暴だが、掴まれた腕に痛みは感じない。つまり振り解こうと思えばできる程度の握力だったが、疑問ばかりが思考を先行し、リナリーはそれをしなかった。

「え、な、なに?どうしたの?」
「外」
「え?」
「見てみろ」

やがて窓の前に立たされた彼女は、言われた通りに窓の外へ視線を向け―――小さな歓声をあげた。

「わぁ…!」

先程まではのししかかるような薄闇に支配されていたはずの外の世界を、やわらかな光が照らし出していた。それでいて未だ曇天から降り注ぐ小雨と、その隙間から地上へと注がれるその光が、本部から程近い市街地の上空に七色のアーチを創り出していたのである。
あのままティエドール元帥を捜し続けていたら、見逃していたかもしれない。雨で洗い流された世界から淡くも美しい色彩を放つ、この優麗な自然風景を。

「きれい…!虹なんて見たの、何年ぶりかな」

リナリーのその言葉に、神田は何も返さない。窓際に寄りかかりながら彼女の隣に立ち、どこか気怠そうに虹を見ている。彼自身はきっと、いや間違いなく、このような優美な情景にあまり興味が無いのだ。

「見せてくれてありがとう、神田」

久しぶりに虹を眺望することができた喜びと、自分は好きでも何でもないだろうに、神田がわざわざこの風景を見せてくれた嬉しさに、リナリーの顔に笑みがあふれる。幼子のような無邪気さと、女性ならではの和やかさを兼ね備えた、可愛らしい笑顔だ。彼はその笑みに視線を流して、だがすぐに逸らした。

「べつに。お前、虹が好きだろ」
「うん!大好き……、…―――」

ふっ、と。その瞬間、彼女の意識を何かが通り過ぎていった。


『おまえ、虹、好きなんだろ』


美しい虹の絵画の向こうから聞こえた、まだ幼さの残る少年の声。無感情に思えて、けれどかすかに震えているような気がした、声。
画用紙を広げて持つ手は、はたして大人の手だっただろうか。いやあの手は、大人の男性のごつごつとした手ではなく、細かった。しかし女性のような細さともまた違っていて、そうだあの手は、あの頃の自分に近しいものがあった。子どもの、手だ。
しばらくして、不意に自分の見える範囲から外れた絵画。代わりに一瞬だけ視界を掠めていったのは、少し長い黒髪の―――

「……かん、だ、」
「あ?」

声が震えた。きっとあの時の彼と、同じように。
指先にまで浸透したその震えをなんとか抑え込んで、リナリーは手に持っていた画用紙を開いた。余計な折り目を付けぬように、ゆっくりと、丸めていた紙の湾曲を正していく。
そうしてその絵を視認すると共に瞠目した神田を見て、とうとう心までもが震えた。こんなにも、こんなにも近くに、捜していた人がいた。あの頃の自分の凍て付いた心に、優しい温度で触れてくれた人が。

「…神田、だったんだ……私に、これをくれたの…」

そんなのおれは知らないって、昔そう言ったのに。
青年は押し黙ったまま、口を開かない。それは肯定の意を示しているも同然だった。しかし彼女の頬を伝い始めた涙に、僅かに眉根を寄せる。

「ごめん、なさい…ごめん……っ」

薄い傷跡の残るリナリーの濡れた片頬に、目許に、神田は掌を添えた。俯きかけていた彼女の顔をやんわりと上げさせ、撫でるようにその指先を滑らせて、流れる雫を拭う。

「なんで謝るんだ」
「だっ、て…だって、私、なにも……なんにも、覚えてなかった…!」

どんな気持ちだっただろう。
生きているのに。目も、開いているのに。何も見ず何も聞かず、何の反応も返してこない。ただ息をしているだけの人間を見ていなければならなかった、その気持ちは。
いっそのこと見限って忘れてしまえば楽だったろうに、彼はそれをしなかった。何を願って、何を想って、あの絵を。

「……馬鹿だろ、お前」

そんな罵言とは裏腹に、神田は彼女の頭に掌を当て、ゆっくりと自らの胸板へ引き寄せた。髪を梳くようにして撫でてくる大きな手に、泣くことを赦されたような気がして、リナリーの涙腺はますます弛んでいく。目許を押し付けたせいで彼のシャツを濡らしてしまったことに気付き、思わず身を離そうとしたが、神田はそれを見越したかのように、両腕を彼女の背中に回した。相変わらず、このまま力を込めればぽっきりと折れてしまいそうな、儚い背中だ。
今まで幾度か繰り返してきたそんな意思を払拭するように、彼は呆れの色に濃く染まったため息を吐く。

「自分のことも覚えてねぇのかよ」
「……?」
「…あの時―――お前、笑ったんだぜ」

故郷で兄と一緒に見た虹がとても好きで忘れられないと、そう呟いていた少女。
師匠から押し付けられた虹の絵画を見て、ふとそのことを思い出して。ほんの僅かでも彼女の固く閉ざされた心に響けばと、あの部屋を訪れ、少女の眼前に絵を広げた。
そうしたら、笑ったのだ。微笑みにも及ばない、ひどくかすかなものだったけれど。綻んだ唇と細められた双眸を目にしたあの瞬間、痺れるような熱が、胸の奥に込み上げて。
師匠の絵と、彼女の兄との思い出の力に頼ったものだったが、それでも。長い間見ることの叶わなかった笑顔に、ようやくまた、出会えて。自分が何度も何度も少女の許へ足を運んだのはこの笑顔を見たいが故だったのだと、知った。
そしてどうしようもないくらいに、焦がれていたことを。

「べつに、覚えててほしかったわけじゃない。俺は…あの時は、お前が笑っただけで十分だった」

完全に壊れたわけじゃない。まだこの少女は元に戻れる可能性が在ると、知れたから。
やがて彼女を救ったのは、結局のところ自分ではなかったけれど。本来の姿を取り戻した彼女の、それまでより何倍も輝かしい笑顔を見て、世界が変わったような気がした。あんなにも暗く荒んで見えて、怨恨すら抱いていた世界に、優しさが散りばめられていることを教えてくれた。
だからリナリーがあの時のことを忘れていると知っても、べつに構わなかったのだ。忘れたままでいいとも思った。御礼を言いたい、とあの絵画の送り主を捜す彼女の姿を見るのは少し忍びなかったけれど。だって礼を言うべきなのは、むしろ―――

「ありがとう…」

腕の中から聞こえてきた、静寂に溶け込むような声音で囁かれたその言葉に、青年は苦笑する。礼を言われるようなことなど、何もないのに。
抱擁を解けば、そこには涙に濡れた 瞳を切なげに揺らしながらこちらを見上げてくる、幼なじみの顔があって。
同じ言葉を返す代わりに、彼女の唇を塞いだ。



世界があんまりにも優しいのはどうして






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