最終回 目を閉じても、窓から差し込む西日の光がわかる。 その明るさのせいなのか、なんだかいけないことをしているような感覚に囚われた。もしかして、これを背徳感というのかもしれない。 続けられる口接けにいよいよ息苦しくなって、避けるように顎を引くと篠井の唇はそのまま頬をすべり、首筋に軽く歯を立てられた。 驚いたのと、篠井の髪が触れるくすぐったさに、身を捩ると体を押されてベッドに倒れこむ。 覆いかぶさってくる影にぎくりとし、そのまま俺の首筋に顔を埋める篠井の少し荒い呼吸に動揺した。 この体勢は、まるで――。 そう思った時、シャツの下から篠井の手がすべりこんできて、腹をなでられた。ぎょっとして身を起こそうとしても篠井の体に抑えられてそれも叶わず、俺はもうおろおろとするしかない。 篠井の手はゆっくりと撫でるように動いて、次第にシャツを捲るように上にあがってきた。乾いた手の感触に体が震える。 どうしよう。 「さ、篠井…」 呼びかけても篠井は応えず、彼の表情が見えないことにどんどん不安になってくる。 目の端に映る篠井の髪と天井と壁とを何度も繰り返し見て、手は行き場を探して宙をさまよう。動揺しているのは確かなのに、頭のどこかでは、俺の体なんか触って楽しいのかとか、どうして篠井はこんなことをしているのかとか、妙に冷静な考えが浮かんできて、もうわけがわからない。 何かを探るような手の動きに、触れたいと思った篠井の長い指が不意に思い出された。 あの指に触れられていると思った瞬間、身体が熱くなり恥ずかしくて堪らなくなる。 このままでいると変な気分になってしまいそうで、篠井のシャツの背中を掴んで強くひっぱった。 しかし篠井は気づかないのか身じろぎすらしない。 「篠井、ちょっと…」 少し強い調子で咎めようとした時、無機質な電子音があたりに響いた。 聞き覚えのあるその音は俺の携帯だ。 鳴り続ける電子音は篠井にも聞こえているはずなのに、篠井は俺の上から退こうとしない。ただ、手の動きは止まっていて、それに俺は幾分か安堵する。 「篠井、あの、電話、電話が……。俺、出ないと」 そう言うとやっと篠井は体を起こした。慌てて後ろのポケットから携帯を取り出す。 画面を見ると父からで、俺は服を直しながら急いで通話ボタンを押した。 父によると、野球は7回裏で10点以上差が開いているそうで、テレビ観戦は切り上げてそろそろ帰ることにしたそうだ。 俺が商店街にいることを伝えると、迎えに行くから大通りに出ているようにと言われて電話は切れた。 恐る恐る篠井を見る。篠井はこちらに背をむけてベッドの上に胡坐をかいていた。 なんとなく声をかけ難い雰囲気だ。だけどこのままでいるわけにもいかず、どこか頑なな背中に俺は思い切って告げた。 「あの…。親が、そろそろ帰るからって…それで、あの」 ついしどろもどろになってしまう。篠井はしばらく何も言わなかったが、やがて息をついて低い声で言った。 「…早くねえ?野球」 その不機嫌そうな声に思わず気後れしそうになる。 「あ、なんか、もう10点くらい差がついちゃってて、それで、観るのやめたんだって」 「10点差?」 「うん…」 すると篠井はもう一度息をついて、だらしねえと呟いた。 どこか気まずい空気を引きずったまま、篠井家を後にした。 篠井は送ると言ったきりずっと黙ったままで、大通りへの道を肩を並べて歩く。 なんだか変な感じになってしまった。 何か言わないと、と考えを巡らせるが何も思いつかない。 まるで怒っているかのような篠井にいう言葉は、いくら頭をひねっても見つかりそうもなかった。 あの時、しつこく聞き出そうとしなければよかった。篠井は俺が本音を告げないことを許してくれたのに、どうして俺はそうしなかったのか。 自分の馬鹿さ加減が嫌になる。せっかく久しぶりに会えたのに、なんでこんなことになってしまったんだろう。 押し寄せてくる後悔にうつむくと、篠井がぽつりと言った。 「…ごめん」 「えっ!? あ、何が?」 慌てて顔をあげて彼を見ると、俺から顔を隠すようにうつむいていた。 「…あんなことして、嫌だっただろ。でも俺、止まんなくて……軽蔑されてもしかたない」 てっきり怒っているのかと思ったが、どうやらしょげていたらしいと初めて気づいた。 「軽蔑なんてしないよ」 言ってはみたものの、篠井はうつむいたままだ。 なんというか、篠井に、というよりは他人に、ああいうことをしたいと思われているというのが俺にはまだよく受け止め切れておらず、感想としてはただ驚いた、それだけだ。嫌だったとか良かったとかは、正直よくわからない。 「だって、俺たち、…つ、付き合ってるんだしさ」 「……」 勇気をだして言ってみても、篠井の顔をあげることは叶わなかった。 落ち込む篠井を見て、妙な焦りを覚える。なんとかして元気付けねばという使命感にとらわれて俺は何も考えないまま口を開いた。 「あの、俺の方こそ何もできなくてごめん。経験ないからああいうときどうすればいいのかわかんなくて。うまく対処できないっていうかさ。こう、手をどうしたらいいのかとかどう動けばいいのかとか、どこ見てたらいいのかとか、力を入れたほうがいいのかとか抜いたほうがいいのかとか。結構、難しいな、ああいうのって。みんな、初めはどうしてんだろうな」 何を言いたいのか自分でもわからなくなってきた。明るさを装った声が我ながら空々しい。 しかしそんな俺の言葉はどうやらそれなりに正解だったらしく、篠井はやっと口を開いてくれた。 「…亮くんは何もしなくていい」 「…え、あ、そう?」 「うん。俺に任せてくれればいい」 そういうものなんだろうか。 情けないことにいまいち勝手がわからない。男同士なんだから、それはしかたないことだと自分の名誉のために思いたい。 どこかの店先のテレビから歓声が聞こえて来た。野球が終わったのだろう。 プールのバッグを持った小学生が二人、前から駆けてきて、俺たちとすれ違った。それを待っていたかのように篠井は続けた。 「でも、俺は亮くんの嫌がることはしたくない。だから、亮くんがしたくないなら、ずっとしないままでいい。それでも俺は浮気なんかしないし心変わりもしない」 健気な言葉に胸を突かれた気がした。 思わず俺は口を開いた。何も考えてなかった。 「俺は、篠井の好きでいいよ」 「……でも亮くんが嫌なことはしたくない」 「俺は篠井のわがままとかさ、きいてあげたいんだ。それが嬉しいっていうか、我慢されてる方がずっと嫌かもしれない」 篠井がこちらを向いた気配がした。ちらりと彼を見ると、篠井は泣きそうな顔をしていた。 しかしそれは一瞬で、篠井はすぐに薄い笑みを口元に浮かべ、俺は彼の笑顔が見られたことにほっとする。 空気が一気に和らいだように感じた。 「亮くんてマゾ?」 「なんでそうなるんだよ!」 とんでもない言われように抗議すると、篠井は愉快そうに笑った。 大通りに出ると、すでに両親の車が止まっていた。 両親と篠井は車の窓ごしに挨拶を交わし、かつて住んでいた土地を後にする。 見えなくなるまで篠井は見送ってくれて、それに気づいた父が、いい子だなとぽつりと呟いたのが嬉しかった。 篠井にだらしねえと評された試合の話をはじめた父と母の後ろで、彼との会話を反芻して俺は羞恥に叫びだしたくなった。 好きにしたらいい、なんてどうして言ってしまったんだろう。次に会う時、どうすればいいんだ。恥ずかしい。 羞恥で身が焼けるとは良くいったものだ。顔と胸が死ぬほど熱い。 しかし、本当に篠井の行動にはびっくりした。 まさか自分とああいうことをしたいと思っていたなんて。 俺もまったく考えていなかったわけでもないが、自分の中ではいまいち具体性を欠いたことだった。 まあ、もしも俺に覚悟が必要だとしたら、途中で彼の気が変わった時に傷つかないようにすることだと思う。 やはり俺の体を触って楽しいとはあまり思えないし、いざやってみたら気分が萎えたとか大いにありそうだ。 とにかくこのことは大学に受かって、彼と同じ町で暮らせるようになってから考えよう。 考えているうちに眠くなってきて、俺は低いタイヤのうねりを聞きながら目を閉じた。 おわり [*前へ] [戻る] |