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 洗い物と掃除は割と好きな作業だ。成果が目に見えるし、それに無心で出来る。
 雨宮の家に行かなくなってから1ヶ月が過ぎた。相変わらず俺は雨宮のことが心にひっかかっていて、だけど今更、のこのこと会いに行く勇気もでないままだった。
 叔母が仕込みに使った調理器具を洗い終えてから、俺は客席を掃除しに客席に出た。
 17時ぴったりに客が入ることはこの店ではあまりなく、18時前後に馴染みの客が入り始めるという感じだ。
「4番と5番のテーブルくっつけて予約席の札だしておいてくれる?6名様、17時スタートね」
 ちょうど4番のテーブルのあたりを掃いていると叔母にそう言われて、俺は言うとおりテーブルを移動させた。それにしても17時ぴったりの予約なんて珍しい。大抵、宴会のスタートは早くて18時で、平日が多い。
 もしかしたら、町内会とか父母会とかの打ち上げかもしれない。
 そんなことを考えながら席を移動し終えて、レジのところにある予約のノートを見ると、「酒井様 6名」と書き込まれていた。
「コース?」
「ううん。席だけのご予約」
 人気店ともいえないこの店で、17時スタートでコースじゃなくて席だけを予約するなんて、慎重な人もいるものだ。
 やがて17時も近くなり、俺は看板と暖簾を出しに表に出た。
 盛り塩が汚れてないか確認してから看板の灯りをつけた時、2台のタクシーが店の前にとまった。予約の客かと俺は慌てて札を営業中にひっくり返すと、後ろから聞き覚えのある声がした。
「よお、吉野くん。お邪魔するよ」
 その一度しか聞いたことのない声は、以前俺にとてつもないダメージを与えたものだ。
 振り返ると案の上、あのオフィスであった男がタクシーから降りるところだった。
「あ、あ…えっと、い、いらっしゃいませ」
 一瞬驚愕に自分の役目を忘れかけて、慌ててどもりながら頭を下げる。
「ほらー、ジュニア、吉野くん」
 ジュニア、というのが誰を指すのかすぐ察しがついた。
 おそるおそる顔をあげると雨宮が男の傍らに立っていた。俺をまっすぐに見つめていて、どことなく気まずい雰囲気だったが、きっとそれは俺が一方的に感じているだけだと自分に言い聞かせる。
「…いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」
 雨宮からなんとか視線を外してそういうと、俺はただ客を案内する振りをして、店の中に入った。
 
 
 人数分のお通しとおしぼりを用意していると、どこか浮かれた調子で叔母さんが耳打ちしてきた。
「ねえ。酒井先生に色紙頼めるか聞いてみてくれない?」
「酒井先生?どの人?」
「あの手前に座ってる男前の人。他のお客さんが入る前にささっと、お願い」
 叔母さんがこっそりと指し示したのはあの男だった。
 手短に叔母さんに聞いたところによると、あの男は小説家で叔母さんは著者近影を目にしたときからの大ファンだという。期待しないようにと言い残して、俺は盆を手に席に向った。
 そのテーブルにいたのは、みんなあの日にオフィスにいた人たちで、なんとなく見覚えがあった。お通しとお絞りを置いてから飲み物の注文を尋ねる。それを受けて声をあげたのは、あの男…叔母さんが人を間違えていないなら、酒井先生その人だった。
「みなさん、とりあえず最初は生でいいですよね。ジュニア、お前なんにする」
「……」
 雨宮は酒井先生の問いかけに返事をしなかった。
「昴、おい、飲み物」
 酒井が言い直して、雨宮はようやく自分に言われているのだと気づいたのか、口を開いた。
「僕も同じで」
「……生5つとウーロン茶ね」
 一瞬、雨宮も酒を飲むのかとぎょっとしたが、酒井先生の言葉に安堵して伝票に走り書きすると、俺はカウンターへ向った。
 オーダーを通すと、物言いいたげな表情を浮かべた叔母さんと目があって、俺はついさっき頼まれたことを思い出した。雨宮に気をとられて、すっかりサインのことを忘れていた。
 ビールを注ぎながら俺をにらむ叔母さんの恨みがましい視線に負けて、俺は再びテーブルに向かった。テーブルは歓談がはじまったところといった感じだったが、酒井先生は参加するでもなくといった感じで、タイミング的には悪くないように思えた。
「あの、酒井先生」
 身を屈めて、声を顰める。すると酒井先生は俺の方を少し振り向いた。
「大変恐縮なんですが、サインをお願いしたいんですが…」
「え?なに?吉野クンって俺のファンだったの?」
 酒井の隣に座った雨宮が勢いよくこちらを向くのに目の端で気づいたが、俺に目をあわせる勇気はなく続けた。
「いえ。あの、俺じゃなくて、店長が」
「『いえ』って…ひでえ。そういうときは嘘でもいいからそうですって言っておくもんだよ」
 いつの間にかテーブルの注目は俺たちに集まっていたらしくどっと席が沸いた。
「すみません」
「あ、冗談、冗談。サインだよな、いいよ。色紙はある?」
 言われてちょっと待ってもらうようにお願いして、叔母さんが用意した色紙とサインペンをとってきて差し出した。
 作家なのにサインをしなれているのか、酒井先生はまるで芸能人のように手馴れた調子でペンを走らせた。
「酒井君、師匠の教えにとことん逆らう人だよねえ。サイン会とか握手会とかちょくちょくするし。雨宮先生が知ったらどう思われることか」
 酒井先生の目の前に座った女の人が言った。
「人気商売なんだから、こういうのも大事だろ。どうせ俺は不肖の弟子だし、先生にだって君の好きにすればいいとか言われるくらいだよ。…それに俺、先生に嫌われちゃったみたいだしさあ」
 酒井先生は雨宮のお父さんの弟子なのか。雨宮のことを『ジュニア』と読んでいるくらいだから、きっとこの人たちはみんな雨宮のお父さんに関係のある人たちなんだろう。
 雨宮の視線をまた感じて、ちょっとだけ目を合わせてみようか、と思ったとき、酒井先生が俺を呼んだ。
「吉野くん。これ店名いれればいいの?女将さんの名前?」
「あ、聞いてきます」
 そのまま俺はカウンターにとって返すと、ビールのジョッキを手渡された。その際、酒井先生に聞かれたことを叔母さんに尋ねると、自分で言うといって叔母さんはウーロン茶と残りのビールを乗せたお盆を手に取った。

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あきゅろす。
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