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 その晩、何年かぶり会えた登場人物たちの織り成す物語はやはり俺の心を鷲掴みにした。
 三巻では途中で攫われた彼の妻は二巻ではでずっぱりで、二人の関係は夫婦というよりも相棒に近い感じに描かれており、子どもの頃読んだ印象とは違って、完璧な男だと思っていた父親は少々身勝手というか無神経な人間なようにも感じられた。
 たとえば、はじめの章で自分が息子に、見張りといつでも逃げ出せる準備をしておくために船に残るように指示しているのに、最後の方では息子が船に残って自分たちと冒険にでないことについてからかったりしているのだ。息子は父親の指示に従っているにすぎないのに。
 だいたい両親がこんな面白い事態に出くわしている間、息子は一人ぼっちで船で何日も留守番してるわけで、それを労われこそすれ、なぜ揶揄される筋合いがあるのかと、どうにも腑に落ちない。
 でもまあ、そのあたりを除けば主人公はやはりかっこよくて、俺の子供時代のヒーローであることに代わりは無い。
 だけど。
「なんだかなあ…」
 本を閉じて、ため息をつきつつひとりごちる。
「なに独り言言ってんの?」
 その時、ドアの開く音がすると同時に妹が入ってきた。
 俺が妹の部屋に入る時はノックをしないとこの世の終わりかと思うほど騒ぎ立てるのに、俺の部屋に入ってくる時には実に無遠慮だ。俺だってノックしてもらいたい。
「いや、別に。どうしたの」
「和英貸して。学校に置いてきちゃった」
 そう言いながら妹は俺の返事を待たずに本棚の中を探し始める。無法者という言葉が妹には実によく似合う。
「……辞書置いてくるなんて受験生が余裕だな」
 まあね、と俺の軽口をかるくかわし、和英辞典なんてとっくに見つけただろうに、無法者は今度は本棚の漫画を物色しはじめた。
 妹は俺より3つ下で高校受験を控えているにもかかわらず切羽詰った感じがしない。それはたぶん、妹の成績からすると安全圏もいいところの、うちの近所の都立高校を第一志望をにしているからだと思う。
 両親は俺のようにどこかの大学に付属している私立に行かせたかったようだが、妹は頑として都立への進学をゆずらなかった。大学受験が楽だからという親の勧めのまま何も考えずに高校を決めた俺とは大違いだ。
「ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫ですー。滑り止めのとこは危ないけど、本命は余裕だもん」
 妹の言う「滑り止め」というのは両親が行かせたがってる私立のことで、幾度とない両親の説得に折れて一応受験だけすることになっている。妹の志望している高校も両親推薦の私立も女子高だから、たとえば好きな男がいくからという理由はなさそうだし、傍目から見てそれほど両校に差はないように感じる。やはり大学入試が楽な分だけ私立に軍配があがると思うのに、妹が私立を嫌がる理由が俺にはわからない。
「お前さ、ここだけの話、なんで私立は嫌なの」
「んー?んー…」
 尋ねると妹は首を傾げてまるで鼻歌のような声を出した。そのまま誤魔化されるかと思ったが、妹は歌うのをやめてしばらく考えた後、俺の方を向いた。
「…お兄ちゃんにだけは言っちゃおうかな。お父さんたちにはまだ黙っててね。…あのね、私さあ、高校生のうちに1年くらい留学したいんだよね」
「は?留学?」
 寝耳に水だ。
「そう。だから生徒が留学した実績がある学校に行きたいの。調べたら、都立の方はあっちの高校で単位とれば日本の単位として認めてくれるから留年しなくてすむらしいし、そういう指導とかに力入れはじめてるらしくてさ」
「別にそれなら私立だって…。それに親父が許さないだろ」
 父は、俺のことはほぼ放任という感じだが、妹に対してはなかなか厳しい。
 その過保護たるや妹を友達の家にすら泊まりに行かせないほどだというのに、留学だなんて聞いたら卒倒してしまうかもしれない。父が声を荒げ、妹がそれに負けじと声を張り上げ、母と俺とがそんな二人の間でおろおろする近い未来が見えるような気がする。
「私立はお金かかるでしょ。お父さんたちになるべく負担かけたくないんだもん。それにさ、そう考えて公立にしたって言えば、お父さんの心証もいいかなって思って」
 それはどうだろう。逆に親父は子供がそんな気をまわすなといって叱り飛ばしそうだ。
 そうは思ったが、妹の考えたことに水を差すのもどうかと思って黙っておいた。
「…そうか。そういうのに興味あるなんて意外だな。だってさ、お前、英会話教室だって行くの嫌がってただろ」
 妹はきょとんとしたあと、言いにくそうに俺から目をそらした。
「これいっちゃなんなんだけど、お兄ちゃんて英語習っててさ、成績はいいけど発音とかはカタカナじゃん。洋画見ても字幕読んでるし。だから正直、お兄ちゃんみてて、日本で時間とお金かけて教室いくより現地で学んだほうがいいなって思ったんだよね」
 容赦ない言葉が胸に突き刺さった。
 妹の言うとおり俺は才能がないのか一向に話すのがうまくならない。英語の成績だけはいいのだが、はっきり言ってそれは学問としてであって、コミュニケーションの手段として身についているとはとても言えなかった。
「まあ、お兄ちゃんはそれでよかったと思うよ。受験にちゃんと役立ったんだし。でも私は成績とかよりは、しゃべれるようになりたいから。じゃ、辞書借りてくね。…お父さんに言ったら一生許さないからね」
 そう言って無法者は辞書と漫画を手に自分の部屋へと帰っていった。
 軽くショックだった。
 うまくならない英会話のことをずばり言われたからというのもあったが、3つも下の妹が自分のやりたいことを実に現実的な方法で叶えようとしているのを知って、どうしても自分の現状と比べてしまう。
 学費のかかる私立に行かせてもらって、そのおかげで空いた時間で身内のところでアルバイトさせてもらって、ささやかな金を稼いで。
 自分がやっていることはどこまでも効率が悪いような気がする。
 考えるほど落ち込んでしまいそうで、俺は雨宮に借りた本を手に取った。
 その本には俺が知りたかった答えは結局載っていない。一家がなぜ旅を続けているのか、二巻を読んでも結局わからずじまいだ。
 ただ、この本に触発されたどこかに行きたいという願望だけは自分の中で確かなものだ。
 だけど、このままだと俺はどこにも行けない気がした。
 


 翌日、店に行くなり案の定、容器を引き取って来いと言われた。
 二つ返事で引き受けてエレベータで最上階まであがる。
 こうした小さな雑居ビルでは出前の容器はエレベーターホールとかに置いてあるものだろうが、エレベーターであがった先には何も見当たらず、俺は再び以前のようにインターホンを押した。どのみち本を返さなければならないから、そうする必要はあったわけだがなぜか緊張する。
『―― はい』
 雨宮の声だ。
「あの…」
『上へ。鍵は開いてる』
 それだけで俺だとわかったのか、インターホンは切れた。
 非常階段を上がって上のフロアに行き、少し迷ってからすりガラスのドアを開けると、すぐそこに雨宮が立っていた。
「あ、こんにちは」
 出前の容器を引き取りに来たに身にしてはなんとも間抜けな挨拶だ。やはり雨宮はなんの反応も示さない。
 俺は昨日借りた本を彼に渡して頭を下げた。
「ありがとうございました。無理言ってすみません」
「別に」
「あの、すごく面白かったです。子どもの頃読むのとはまた受ける印象も違って」
 言いながら彼の肩越しに目に入った部屋の中は、昨日より散らかっている気がした。本棚の整理でもしている途中なのか、昨日はぎっしりと詰まっていた棚のうちのいくつかは空っぽで、その分、床が見えている面積が減っているような気がする。
「どんな風に?」
「えっ」
 尋ねられて意識が部屋から雨宮に戻った。
 社交辞令というか、一応本を借りた時の礼儀として軽く感想を述べただけのつもりだったが、突然の問いかけに言葉が詰まる。
 雨宮は俺の返事を待っていて、もう取繕う余裕もなく、俺はしかたなく思ったことをそのまま言った。
「かっこいいと思っていた主人公が案外勝手な奴だなー…とか、息子が結構いい奴だったとか…ですかね」
「いい奴?そんな描写はどこにもない」
「だって、きちんと父親の言いつけ守ってるいい子じゃないですか。俺だったらああいう時、一人で留守番とか我慢できないから自分も連れてけとか駄々こねるかも。…いやでもあの息子はあの息子なりの考えとかあるのかな。あいつ頭よさそうだし」
「……要するに、自分が息子の立場だった場合と比べてということ」
 ちょっと滑らかになりつつあった口と思考にやんわりと水を差されたような気がして、俺は途端になんだか気恥ずかしくなってしまった。
「まあ…そういうこと…ですね。…あ、あの、容器いいですか」
 恥ずかしさを誤魔化すために、さっさと用を済ませて退散してしまおう。そう思った。
 しかし、雨宮はしばらく何の反応も示さず、俺をじっと見つめてから、唐突に言った。
「あがっていかないのか」
「え」
 あがっていく?この部屋に?なぜ?昨日はそれなりに用があったから部屋に入っただけなのに。
 思いもしない言葉に、雨宮を見るとじっと見返されて、なんとなく落ち着かない。
「あ、あの、まだバイトがありますので…」
「―― 昨日は?」
 昨日?昨日は、結構ここに長居していたから、時間は大丈夫だったのかとききたいのだろうか。
「あ、昨日はちょうど退ける時間だったんで…。あの、弁当箱を…」
 俺が再び促すと、雨宮は俺に背を向けて奥にいき、やっと弁当箱を片手に戻ってきた。
「残念だ。君ともっと話したかった」
「え、なんで」
 弁当箱を受け取りながら思いもかけないことを言われてびっくりした。
 雨宮は俺を見つめたまま、静かに口を開く。
「楽しかったから」
「……。」
 俺と話して楽しかった、ということなんだろうか。それならそれでもう少し楽しそうにしてもいいものだが、雨宮の表情は変わらず、俺はただ、はあと間抜けに返すだけだった。
 
 
 非常階段を降りながら思った。
 そういえば彼は高校に行っていないと言っていた。もしかしてそのせいで友達がいなくて、彼は会話に飢えているのかもしれない。
 彼の短い言葉や少々不自然な言葉遣いがその推測を裏付けているような気もして、俺は少し雨宮が可哀想になった。
 今度は時間を作って少し話してみようか。彼の父親の話も聞いてみたいし、もしかしたら雨宮浩本人に会えるかもしれないし、なにより、あの本の登場人物そのものの彼に興味がないわけでもない。
 そんなことをぼんやりと考えていたら、俺はそのまま階段で1階まで行ってしまった。

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