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3
「あの、それ…」
 震える声に俺の動揺がありありとわかるだろうに、彼はこちらを見もしなかった。
 ともすれば心が折れそうなその態度にもかまわず、俺は唾を飲み込んでもう一度いった。
「あ、あの、それ何かの本で読みました?」
「…… それ?」
「旅の助走…って奴。あの、俺が小さい頃読んでた本に似た文が出てきたんですけど」
 その言葉に彼は手をとめ、ゆっくりとこちらをみた。
 しかし彼は何も言わず、俺は焦って続ける言葉を捜す。
「あの、俺、その本が好きだったんでもう一度読みたいんです。もしも作者とか出版社とか覚えてたら教えて欲しいんですが」
 あまりに彼がじっと俺を見つめるので妙な居心地の悪さを感じつつも、どうにか言い切った。
 なんとなく緊張するのは、自分にとって幻の本の情報が手に入りそうだからか、それともガラスの向こうからくるまっすぐすぎる視線のせいなのかわからない。ただ、彼の答えを待って端整な顔から目を逸らさず見つめ返した。
 不意に視線が外され彼はそのまま本棚の方へ向かった。そして、そこから一冊の本を取りだして俺に向って手招きをする。
 慌てて行くと本を差し出されて、その見覚えのあるタイトルに俺は思わず息を飲んだ。
 間違いなくあの本だ。
 受け取ってページを捲る。すると、文字の大きさの割りに行間が妙につまったレイアウトだったことや、章のはじめがローマ数字だったこと、忘れていたそれらのことが、途端によみがえってきて懐かしさに涙がでそうになった。
 豪快で男らしい父親や、明るい母親、彼らと対極をなすような冷静沈着で無口で几帳面な息子、彼らの船の名前。どれもこれも読んだ覚えのあるものだ。
 しかしざっと文字を追っているうちに俺の知っている話とはちょっと違っていることに気づいた。
 俺が知っているのは、女性の存在しない国で母親が攫われて、その国で唯一の女性の生き残りである美少女と父親との救出劇がメインだった気がするのにそんなことはおくびにもでてこない。それどころか、その本は最後のページにまで、俺の記憶の中では攫われたままのはずの母親が登場していた。
 だけど父親も母親も息子も俺の記憶どおりの登場人物では確かにあって、これはどうしたことかと軽く混乱する。もしかして俺は何か別の本とごっちゃにして話を覚えていたのだろうか。
「どうかした」
 本を手にしたまま呆然としている俺を不審に思ったのか雨宮が声をかけてきた。
「いえ……あの、なんか男装してる女の子が出てきたような気がするんですけど…」
「その話は三巻」
 思いもかけない言葉に俺は顔をあげた。彼はあいかわらず顔に張り付いたかのような変わらない表情で、淡々と言った。
「それは二巻」
 俺は思わずぽかんとしてしまった。
 知らなかった。シリーズものだったのか。なんだ、シリーズで出ているなんて案外売れてたんじゃないか。
「三巻も持ってたりしますか?」
 俺が尋ねると彼はたぶん、とだけ言った。
「シリーズ全部持ってるんですか?」
 首を横に振る。まるでぜんまい仕掛けの人形のようだ。
「何巻と何巻を持ってるんですか?」
「把握していない。でも一巻はここにあるはず。残りは探せばあるかもしれないし、ないかもしれない」
 言われて、ついぎっしりとつまった本棚と、床に散乱している本を見回してしまった。この量と散らかり様では把握していないのも無理はないかもしれない。
「何」
 俺の視線に意味を感じたのか、不意に聞かれて俺は慌てて誤魔化した。
「…物持ち、いいんですね。結構昔の本ですよね、これ」
「僕の父が書いたものだから、ここにあるのは当たり前」
「え?」
 慌てて表紙を見ると、タイトルの下に小さく「雨宮 浩」と書いてあった。ここはオフィスアマミヤで、著者は雨宮浩。これは疑いようもない。
 それに、本にでてくる冷静沈着な息子のイメージと目の前の男はあまりに合致していた。
 もしかして彼がモデルなのかもしれないと気は逸り、握手してもらおうと俺はつい右手を差し出してしまった。
 それを見て、彼は一言、「まだ1260円見つかっていない」と言っただけだった。
 
 
 結局、1130円しか雨宮はかき集められなかった。
 一万円札を俺に差し出して「釣りはいらない」ととんでもないことをいうので、慌ててそれは断った。また今度でいいともう一度申し出てみたが、雨宮の気がすまなそうなのとちょっとした計算が働いて、1130円にまける代わりにこの二巻を明日まで貸して欲しいと頼んでみた。どのみちこの部屋にはきっと明日重箱を取りに来なければならないだろうし、足りない分は俺が出しておけばいい。
 雨宮は何ごとか考えていたようだったが承諾し、話がまとまったことに気をよくして本を片手に帰ろうとすると呼び止められた。
「君の名前は」
 本を借りるのにうっかり名乗っていなかった。それにしても、他人を「君」なんて呼び方をする奴に初めて会ったかもしれない。
「吉野です」
「店の名前じゃない。君の名前は」
「下の店は俺の叔母がやってるんで、同じなんです。…あ、だから俺、身元は一応確かですよ」
「年齢は?」
「18ですけど…」
 答えてから、ふとした興味がわいて、聞き返してみた。
「雨宮さんはおいくつなんですか?」
「さん、は要らない。君と同じ」
「同じ?高三ですか?」
 俺の言葉に雨宮は首を振った。大学生なんだろうか。
「僕は高校には行っていない」
 少し驚いたが、なんとか顔に出さずに済んだと思う。そうはあまり見えないが、体が弱いとかなんだろうか。
「そうですか…」
「君は学校に行っているのになぜ働いている?」
 いまどきバイトしている高校生なんて珍しくもないと思うが、どこか浮世離れした彼にしてみれば不思議なのかもしれない。それにあんなに一万円札を何枚も持っているなんて相当裕福なんだろう。
 適当に小遣い稼ぎにと答えるのが妥当なんだろうが、なんとなくあの本にでてくる登場人物そのままの雨宮には正直に答えたくなった。この願望を他人に言うのは初めてで、それはほとんど衝動のようなものだった。
「いつか旅に出たいなあと思っててその資金に。…実は、この本の影響なんですけど」
「どこへ?」
 やはりというか予想はしていたことを尋ねられて、俺は言葉を詰まらせ、途端に決まり悪くなって俯いた。
 少しだけ、どう思われるかと気にしつつ白状する。
「……いや、あの…行き先はとくに決まってないんです」
 行くところが決まってないのに本の影響で旅にでたいなんて、イメージだけで夢見ている軽薄な感じに受け止められないだろうか。まあ、まさしくその通りだからこそ俺は今までその願望を誰にも言えなかったわけなのだが。
 雨宮は何も言わなかった。
 長い沈黙に耐え切れず、おそるおそる目を上げる。
 案の定、やはり適当に答えておけばよかったと瞬時に反省するほど、雨宮は冷めた目で俺を見下ろしていた。

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あきゅろす。
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