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21
 憑き物が落ちたように、というのもどうかと思うが、とにかくあの日から雨宮は少し変わった。
 部屋を留守にすることが多くなって、聞けば英会話の教室に通い始めたそうだ。だから教室の日は部屋にはいないと言われた。
 大学に行きたかったというようなことを言っていたから、もしかすると高認を受ける準備なのかもしれない。
 それは歓迎すべきことなのに、俺はなぜか漠然とした不安を抱くようになっていた。そんなときに決まって脳裏に浮かぶのは、図書館に一緒に行ったときに駅前で女の子が気にしたように雨宮を見ていた光景で、雨宮はそんなことに興味はなさそうだから大丈夫だと自分に言い聞かせるものの、一体何が大丈夫なのかは自分でもよくわからなかった。
 いままで俺は雨宮を独占していたようなものだったから、きっと、彼が外に出るようになって、そうじゃなくなるのが面白くないだけなんだろう。それにその感覚は小学生のころ仲がいい友達と喧嘩したときに、その友達が別の奴と遊んでいるのを見たときのような感じに似ていたから、これはきっと子供っぽい独占欲だと結論づけて、自分を恥じた。
 俺に対する雨宮の態度は基本的に変わりはなかった。ただ、寂しいとか会いたかったとかそんな言葉は口にしなくなってしまった。それは学校が休みなこともあって俺は頻繁に雨宮の部屋を訪れていたから、そんなことを思わないのは当たり前のことだ。だけどそれを少し残念にも思う。
 卒業式を間近に控えたある日、酒井先生が昼間に叔母の店にやってきた。
 メニューとお茶を持って先生の席にいくと、先生は人好きのする笑顔を見せてにこやかに俺に言った。
「君さ、昴に話してくれたんだろ?ありがとうな」
「え?いえ?」
 雨宮を外へ連れ出したのは父親の言葉で、結局、俺は何も話していない。
 なんでそんなことになっているのかわからないが、雨宮が何か言ったのだろうか。
「あれ?違うの?」
「俺は何も話してないです。何かあったんですか?」
「んー…。まあね」
 そういいながら先生は胸のポケットを探って煙草を出した。もしかして英会話の学校のことだろうか。
 いままでほとんど何もしていなかった雨宮が、外に出て何かをするようになったわけだから、先生も安心しているのかもしれない。
「すみません、昼間は禁煙なんです。ここ」
「ん?ああ、そう書いてあるね。申し訳ない」
 すぐ煙草をポケットにしまうと、さすがにバツが悪いのか先生は口をつぐんだ。それで会話は途切れてしまい、俺は慌てて話題を探した。
「あ、あの、サッカー。すみません。チケットいただいたのに、結局俺たちいかなくて…」
「サッカー?……あれ、君と行くんだったの?」
「はい。すみません」
 先生はぽかんとして俺の顔を見た。それから何かを考えるように、視線をさまよわせる。
「そうか…。あいつ…。ああ、なるほど」
 最後によくわからない呟きを漏らして、先生は長いため息をついた。
 そのとき、別のお客さんが入ってきて、俺は先生の席から離れたが、先生はずっと何事か考えこんでいるようだった。その後、注文を受けたときも、料理を運んだときも先生はどこか迷うように俺を見て、何か言いたげに口を開いては結局何も言わないといったことを繰り返した。
 そして帰るときに先生は俺にとってはありえないことを言い残して言った。
「昴のこと、嫌わないでやってくれな」
 


 先生の様子が気になったこともあって、その夜は帰りに雨宮の部屋を訪ねてみることにした。
 雨宮はその日は部屋にいた。
 非常階段を上るとき、風に吹かれても、それほどつらくないことに気づく。もうすっかり春だ。
 ドアを開けて、いまだかつてないほど綺麗に片付いた部屋に驚いた。本は散らばっていないし、脱ぎ散らかった服もない。
 母親のメッセージを目にしてからなるべく片付けるように心がけていたようだが、それでもやっぱり雑然とした部屋のままだったのに、すごい変わりようだ。
 これも彼の中に変化が起きたせいなのだろうか。
「ずいぶん、部屋綺麗になったな」
「いろいろ自宅に持ち帰ったから」
 そう言って雨宮はベランダにでた。いつものように望遠鏡を運ばないことを不思議に思いながら、俺もその後に続く。
 外にでると、やはり風は冷たくない。それどころか少し暖かいくらいで、心なしか遠くに見える衝突防止灯の光も少し霞んでみえるような気がした。
「もうすぐ流星が振るらしい。昨日、テレビで言ってた」
「ああ、知ってる。何十年かに一度の流星群って奴だろ?」
 雨宮もテレビなんて観るのかと、取りようによっては失礼なことを思いながら答える。
 空を見ると今日は少し雲があって、天体観測日和とはいかないようだ。テレビでは肉眼でも観られるというようなことを言っていたけど、これだとすこし厳しいかもしれない。
「望遠鏡は?」
「流星を観るのにはいらない」
 言われてみればたしかに流れる星を追うには、視界の狭い望遠鏡は適さないかもしれない。
 雨宮と並んでベランダの手すりに乗り出すように寄りかかり、空を眺めた。流星の起点という放射点の場所を雨宮に教えてもらったが、別にそこから流れるわけではないそうだ。ただ流星が流れる方向の目安になると言われた。
 曇った空に見える星はまばらで、流星なんて見つかりそうもない。しばらくそんな空を眺めているうちに、俺は少し飽きて来てしまった。
 退屈しのぎに雨宮になにか話しかけようと横をみると、空を見ているとばかり思っていた雨宮はこちらを観ていた。
 目があって、雨宮が言った。
「――ありがとう」
「え?何?突然」
 唐突に、礼を言われて驚いた。しかし雨宮は落ち着いた様子で淡々と言った。
「君と会って色々変わることができた。君と会う前はずっと自分は死んでいたように感じる」
 まじめな顔でそういう雨宮に慌てた。俺は別に何もしていない。逆に雨宮に元気づけてもらった方なのに。
「お、大げさだな」
「ほんとうに。……君と会えてよかった」
 なおも言われて、胸に温かいものが広がった。雨宮がそう思ってくれていることが、ただ嬉しかった。俺との出会いをそういう風に思ってくれているんだと思うと、気分が浮上してくるのを感じて、浮かれるままに口を開く。
「俺も…俺も雨宮と友達になれて良かった。これらからもずっといい友達でいたいって思ってる」
「……」
 雨宮は何も言わなかったが、わずかに口元を緩めた。どうやら彼も俺の言葉を喜んでくれたようだ。
 だけど俺は不思議なことに自分の言葉に違和感を覚えていた。それは嘘偽りのない俺の本心で、最大限の好意を示す言葉のはずなのに、何か変だ。何かが足りない。
 そう思うのに、その欠けているものの正体は掴めず、なんだかもやもやする。
「君の下の名前は?」
「え?」
「聞いたことがない。以前、名前を聞いたのに君は苗字しか教えてくれなかった」
 そういえばそうだ。
「友也だよ。吉野友也」
 名前を告げると、ともや、と確かめるように雨宮は言った。
 まるで自分の名前を彼に呼ばれたように感じて、心臓が強く鳴った。慌てて雨宮から顔を逸らす。なんだ、どうしたんだろう、俺は。
 鼓動が痛いほど早鐘のように打ち始め、急に顔が熱くなる。頬杖をつくふりをして手の平を頬にあてるとかすかに熱をはらんでいた。
 友也なんて、親にも友達にも、場合によっては妹にだって呼ばれているのに、雨宮から出たそれはまるで別の響きを持っているようだ。
 ともや、だって。ともや。
 半ば呪文のように繰り返し雨宮の声を頭の中で反芻する。
「字は?」
 そう訊かれて、俺はどこか上ずった声で答えた。
「えっ?えっと、友達の友に、簡単な方の…」
 俺は彼から視線を逸らしたまま説明した。なんだか雨宮の目をまともに見られない。
 もしかして雨宮はこれからずっと俺のことを友也と呼ぶんだろうか。想像すると頭の芯が痺れるようでくらくらする。
 これから雨宮が俺を下の名前で呼ぶなら、俺も彼を下の名前で呼んでもいいかもしれない。
 そう考えた途端、盛大な照れが俺を襲った。この分だと、しばらくは名前で呼ぶなんて無理そうだ。昴と頭の中で呼んでみるだけでどうにかなりそうなのに。
「――流れた」
 雨宮が呟いて、もの思いにふけっていた俺はその声で我に返った。
 一瞬何のことだかわからなかったが、すぐに星のことだと気づいて、慌てて空に目を向ける。
「え?どこ?」
 指を指されたほうに目を向けても、暗い空が広がっているだけだった。
「見逃した…」
「君はぼんやりしてたから、しかたがない」
 言われてさらに顔が赤くなった。上の空だったことに気づかれていたことが恥ずかしい。
「……ちょっと考え事してたんだよ。今度は見逃さないように集中する」
 そうは言って空に目を向けはしたが、流星なんてもはやどうでも良くなっていた。
 ただ隣にいる雨宮のことがおかしなほど気にかかって、それを悟られないために俺はそれからは必死に流星を探す振りだけをした。

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