2 外に出たとたん、ビル風に煽られた。海が近くてビルが多いせいかこの辺りはいつも風が強いような気がする。 地上への段数の少ない階段をあがって、ビルの入り口に周ると、俺はテナントの名前が羅列された札を確認してからエレベーターのボタンを押した。 最上階の会社名には「オフィスアマミヤ」と記されており、そこの雨宮さん宛てということはこれを注文したのは経営者なのだろうか。 それにしても、長いことこのビルに通っているが、エレベーターに乗るのはこれが初めてだ。古いエレベーターの中は狭く、モーターの低いうなりはえもいわれぬ不安を駆り立てる。 俺を乗せたエレベーターはほどなく最上階にたどり着き、なんとなく急いで降りると、下で誰かが呼んだのかエレベーターはすぐに下がっていった。 エレベーターの正面には非常階段への入り口、右手の方にはガラスの扉があった。その扉には「オフィス雨宮」という看板…というにはいささか抵抗のある、手書きの紙が貼ってある。 しかしガラスの扉の向こうは真っ暗で、中に人がいるようには思えない。 困ってあたりを伺うと、ドアのすぐ横の壁にインターホンがあるのに気づきそれを押してみる。しばらくたって若い男の声で応答があった。 『―はい』 「あの、出前の配達に」 『―非常階段で上へ』 それだけいうとプッっと音がして、応答は途切れた。 上に?屋上にということだろうか。このビルに屋上があるなんて知らなかった。 俺は豚汁をこぼさないように慎重に非常階段への重いドアを開けた。 風に注意しながら階段を登ると、驚いたことにそこにはまたドアがあった。 エレベーターで行きつけるところが最上階だとばかり思っていたのだが、このビルにはさらに上の階が存在したらしい。 とはいえ外に建てられた給水塔の分、他の階の半分ほどの作りになっているようだ。 非常階段の扉をあけると、すぐにもう一つ強化ガラスのドアがあった。それをノックするとすぐにそのドアが開かれた。 ドアを開いたのは意外にも俺と同年代の、眼鏡をかけたひょろりと背の高い男だった。彼が雨宮だろうか。 俺がなんとなく愛想笑いをしてみせても、その男は眉一つ動かすことはなかった。無愛想というよりも、端整な顔立ちのせいか人形のような印象の男だ。 「あの、弁当の配達に…」 「いくら」 俺のもごもごとした口上をさえぎるように被せられたその声に感情は見えなかった。それはぶっきらぼうというのともまた違っていて、抑揚がないと表現したらいいだろうか。ATMの合成音の方がまだ人のぬくもりが感じられるような気がする。 「あ、ええと、1260円です」 俺がいうと彼はジーンズの後ろのポケットから何枚かたたまれた札を取り出した。 そしてどこか不器用な手つきでそれを一枚一枚確認する。なんとなく俺もそれを目で追っていたのだが、すべてそれは万札だった。たぶん10枚はないそれらをすべて確認し終わると、一番上の一枚を俺に差し出した。 「あ、すみません。釣銭ないんです」 出前など俺も叔母も慣れていないせいか、間抜けなことに釣銭に気が回っていなかった。 彼は何も言わずに手を引き、手にしていた札の束をジーンズの後ろのポケットにいれると、じっと俺を見つめた。ガラスの向こうの感情の読めない視線から逃れるように俺は慌てて言った。 「あの、また今度でいいです。後日店の方に払いに来ていただいてもいいですし」 すぐに店に戻って釣銭をとってくればよかったのだろうが、俺はまたすぐに再びこの男と対面することをつい避けてしまった。この短い間にすでに彼に対して苦手意識が芽生えているのかもしれない。 しかし彼は首を横に振った。 「困る」 「え」 「部屋を探せばあるかもしれない。ここは風が強いからとりあえず中へ」 そういうと踵を返してドアの向こうへ消えていった。 中へといわれても、そうするわけにもいかず困って突っ立っていると、奥から「鍵は閉めて」と有無を言わせぬ声がして、俺は仕方なく施錠するとその部屋へと足を踏み入れた。 部屋に入って驚いた。 だだっ広い部屋の壁の片側には作りつけられた本棚が一面にあって、それでも入りきらないのか大量の本が床に積み上げられ、そのいくつかは崩れて散乱しており、床のほとんど半分が見えない。他に家具らしい家具と言えば革張りのソファがあるくらいで、その背にはだらしなくジャケットやらジーンズやらが重ねて掛けられていた。 彼はそのソファに掛けられた服を一枚手に取ると、そのポケットの中を無表情で探った。どうやら小銭を探しているらしい。 それにしても、清々しいまでの散らかりっぷりだ。見るからに神経質そうな印象の男なのに、この部屋とのギャップはすごい。 ここに住んでいるにしても働いているにしても、よくこんな部屋にいられるものだと思う。俺だってそう綺麗好きというわけではないし自分の部屋もお世辞にも片付いているとはいえないが、これはあんまりにもほどがある。 その混沌とした部屋の中を半ば呆れながら見回して、俺がふと目を奪われたのは、窓際に置かれた天体望遠鏡だった。 こんなところから星が見えるのだろうか。 窓に近づいて外をみると外は真っ暗というわけではなかったが、俺が思っていたよりもずいぶんと寂しい夜景だった。これなら星もよく見えるのかもしれない。 背の低い工場がこのあたりには多く、遠くに見える海は真っ暗だ。 「星が好きなんですか?」 つい興味をひかれて尋ねてしまった。 「―― 別に。ただ方角を知るために必要だから」 答えが返ってきたことに驚いたが、それにしても変なことをいう。方角なんて磁石でもGPSでも使えばいいじゃないか。 「方角?北極星だけわかればいいんじゃないですか?」 「雲が多ければ、他の星で判断しなければならない」 なるほど。星で方角を判断する局面なんて俺には思いもつかないが、まあ、とりあえず納得はした。 それにしてもまるで本を読み上げるように話す奴だ。どこまでも感情が感じられない。 「……それと」 続きがあることに驚いた。思わず振り返ると奴はこちらを見てはおらず、相変わらず無表情に服のポケットを探っていた。 「南半球だと天の南極にあたる星は存在しないから、南を知るにはまず南十字星を見つける必要がある」 「…旅行にでもいくんですか?」 南半球という言葉から連想したことを俺は尋ねた。 しかし奴は相変わらず感情の読めない声で答えた。 「別に」 そっけない短い返事に、さすがに立ち入ったことを聞いてしまったかと反省しかけたころ、彼が続けた言葉に思わず目を見張った。 「強いて言うなら、旅の前の助走のようなことをしているだけ」 [*前へ][次へ#] [戻る] |