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18
 俺は何も言えなかった。
 今聞いたことを頭の中で整理する。軽い混乱に陥ったままの俺の口からようやくすべりでた言葉は、陳腐極まりない言葉だった。
「……冗談…とか」
 雨宮は軽く首を横に振る。
「父が帰ってこない限り、それは永遠にわからない。ただ僕が知る限りでは、父は冗談を言う人じゃない」
 雨宮の口調はいつもと変わらない淡々としたものなのに、どこか自嘲めいた響きを含んでいるように感じた。
「僕は父の様子がおかしいことを知っていたのに何もしなかった。僕は父が少し苦手だったから、父が家を空けるのが嬉しくて、深く考えずにそのまま父を見送った。…もしかしたらあのとき僕も、父の言っていることを冗談だと思ったのかもしれない」
 そこで雨宮は言葉を切った。
 馴染みの本の中の登場人物と同じことを言われて、それを冗談だと思うのも無理ない。普通のことだ。
 ただ彼の父親が帰って来ないことが、それに特別な意味を持たせてしまった。
「僕は、父を見殺しにしたも同然だ」
 言いながら雨宮は自分の手を見た。まだかすかに震えている。
「今思えば予兆はあった。無口な人だったのに、時々急に口数が多くなって言葉遣いもくだけて。仲が良かった酒井先生のことを無視するようになって。この国を出ると言ったかと思えば、次の日には言ったことすら忘れていることだってあった」
 手にした絵葉書を雨宮はゆっくりと破り始めた。
 青い山は、ばらばらになっていく。
「僕にできるのは父の言う通りここで待ち続けること。それしかできない。それが罪滅ぼしになるとは思ってない。だけど、父の言いつけを守って僕はここで見張りをしないといけない。馬鹿馬鹿しい。わかってる。だけど僕はずっとそのことしか考えられない」
 それは俺に話しているというより、自分に言い聞かせているようだった。
「ここで一人でいると何が本当なのかわからなくなる。父の言うことが本当で、母はどこかで生きていて、僕はあの本に出てくる、無能で父親の言うことを聞くことしかできない、台詞もほとんどない息子で――」
 どこか遠い目をして言う雨宮に、妙な胸騒ぎがして、俺は慌てて口を開いた。
「雨宮!」
 名前を呼んで彼の手の甲に触れる。すると雨宮がぼんやりとした視線のままこちらを見た。
 その視線をしっかりと捕らえ、彼の耳に届くようにはっきりと言った。
「雨宮はあの息子とは全然違うよ。だってさ、お前、はじめて会った時、旅だつ準備してたじゃないか。南半球がどうとか言って。そうだよ、雨宮だって…」
 ふと雨宮が何かに気をとられたように一点を見つめているのに気づいた。
「……? どうしたんだよ」
「……手」
 手といわれて俺ははっと自分が雨宮の手を強く握っていることに気づいた。
 こちらを向かせるために添えただけだった手は勢いこんでつい強く握ってしまっていたようだ。
「ご、ごめん」
 慌てて放す。すると雨宮はぎこちなく顔を俺から背けた。
 以前は自分から繋いできたこともあるくせに、そんな反応をされるとどうにも気まずい。それに、なんだか照れくさい。
 がらりと変わってしまった空気は、いいのか悪いのかわからないが、俺の勢いと口を止めるものではあったようだ。
 しばらくの沈黙の後、雨宮が言った。
「僕が何」
「え?」
「さっき言いかけたこと」
 顔をそらしたままの雨宮の方を気にしながら俺は言葉を飲み込んだ。
 
 雨宮だってどこにでも行けるんだよ

 本当はそう言おうとした。よく考えれば無責任な言葉だ。雨宮はここに留まることを選んでいて、たった一人で時間を過ごしてきたのに。
 俺の言葉が何になるんだろう。
「…忘れた。ごめん」
 俺が謝ると雨宮はそう、と言ったきりまた黙り込んでしまった。
 雨宮を解放するのはきっと父親の言葉だけだ。
 そう思った。
 
 
 
 雨宮の秘密を知った。
 それは彼の時間を蝕むだけの、素晴らしいものではないけれど。
 俺は雨宮をそこに留める元凶の本を探す気はすっかり失せてしまったが、雨宮の方は却って精力的に本を探すようになった。母親のメッセージがあるからだろう。
 雨宮があの本を見つけたいならと俺も協力は惜しまず、とうとう俺たちは最上階の部屋の本棚をすっかり攫い終えた。
 しかしそこには三巻はなかった。
「やっぱり下か……」
 ぐったりする俺に、雨宮が言った。
「下は人海戦術をとれる」
「え?」
「近いうちに酒井先生が下の本の虫干しをするそうだから、そのついでに探してもらう」
 聞くと、下は酒井先生や他の知り合いの小説家の人たちや大学の先生の蔵書も預かっているそうで、近々、アルバイトを雇って大規模な虫干しと整理を行うらしい。
「君はどうする?」
「え?」
「結構日給がいいらしい。まだ少し、人手が足りないと言っていた」
 
 そんなの訊かれるまでもない。俺は雨宮の言葉に飛びついた。

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