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17
 以前、雨宮に聞いたことがある。
 ユーカリのオイルが薄く溶けた大気の中に浮かぶ青い景色。そこは、たしか雨宮の両親との思い出の場所だ。
「よく、こういう悪戯はある」
 雨宮が言った。いつもは淡々とした一本調子の声が、少し掠れている。
「よくあること。父の名前を騙った手紙とか、電話だって来たことがある。だから、これもきっと悪戯」
 手を伸ばしてその絵葉書を彼の手から取った。裏返すとエアメールのようで、外国の切手が貼られている。住所と宛名は下の事務所で差出人は『雨宮浩』、そのほかには何も書かれていない。
「本当に父ならきっと自宅に送る。だから、これも悪戯だ。わかっている。だけど」
 俺にではなく、まるで自分に言い聞かせるかのような口調に、彼の感情が昂ぶりつつあることがわかって、俺は正面に周って宥めるように両肩に手を置いた。
「雨宮が言いたいこと、わかるよ」
 そう言いながら揺れる視線を捕らえようとすると、雨宮はそれを避けるように俯き、呟くように言った。
「父さんが、もしも生きているなら、僕が見つけにいかないといけない」
「うん。ひとまず警察とか…酒井先生とかに連絡して」
 雨宮は頭を振った。
「違う。誰よりも先に僕が行かないといけない。だけど、僕はここから動けない」
 一体、何を言っているんだろう。少し混乱しているのだろうか。彼の言っていることがよくわからない。
 突然、雨宮の手が俺の腕を掴んだ。その意外な力の強さに息をのむ。
「僕はどこにも行けない。父さんが言った。ここにいろと。だけど、僕が行かないといけない。誰よりも先に。吉野。僕は、どうしたらいいのか、もうわからない」
 俺の腕を縋るように掴む手が、小刻みに震えている。
 その震えに、彼の言った意味などどうでも良くなった。ただ彼を助けたくて必死で言葉を捜す。
 それは、何の深い考えもない、彼の葛藤の答えにもならない、ただの思いつきだった。
「俺が行くよ」
「……」
 雨宮が俺を見た。
 彼が黙ったのをいいことに、彼の目をしっかりと見て、思いついたままに続ける。
「雨宮が行けないなら、俺が行くから。どこにでも行ってやるから、雨宮はここにいればいい」
 俺の腕を掴む手が緩んだ。
 雨宮はそのまま目を閉じて息を吐き、俺の肩にもたれかかるように額を乗せた。
 
 
 しばらく経って、雨宮は少し落ち着きを取り戻したようだった。
 並んでベランダに腰をおろし、暗い夜空を見上げる。
 雨宮は、その絵葉書にかかれた筆跡は父親のものとは明らかに違うと言い、何でもないように続けた。
「僕は、父は生きていないと思っている」
「そんな…」
「状況から考えて、生きていると信じる方がどうかしている。酒井先生も、父が世話になっていた編集部の人たちもそう思っているはず。もちろんみんなそんなことは言わないけど」
「だけど」
「気遣いはいい。だから僕は本当なら自分の将来を考えなければいけない。わかっている」
 おそらく高校に行っていないことを行っているのだろう。
「…雨宮は、お父さんがここにいろって言ったからずっとここにいるの?」
 訪ねても答えはなかった。
 待つ人間にここにいるように言って、帰ってこないなんて酷い話だ。もっとも、きっと帰って来たくても来られないのだから、誰が悪いわけでもなく、どうしようもないことだけど。
 そう思う一方で雨宮が不思議だった。父親は帰ってこないと自分で言っているのに、雨宮はどうして従っているんだろう。彼にとって、その言葉にはそれほどまでに厳格に受け止めなければならないものなのだろうか。
 父親の『ここにいろ』という言葉を、雨宮はあまりにも狭い意味で取りすぎているような気がする。
 少し長い沈黙の後、雨宮はぽつりと口を開いた。
「…これは誰も知らないこと。酒井先生も、編集部の人も、誰も知らない」
 その言葉に俺は雨宮の方をみた。しかし、雨宮は俺をみてはおらず、空に目を向けている。
「君は僕を軽蔑するかもしれない」
「しないよ」
 俺が即答しても雨宮は何も言わず、また沈黙が降りる。
 辛抱強く黙って続きを待つと、雨宮は話し始めた。
「…出発の前の日に父はこの部屋で僕に言った。母を捜しに行ってくると」
「え?」
 雨宮の母親は亡くなっているはずだ。雨宮浩が遭難するよりも前に。
 混乱する俺をよそに、雨宮は淡々と続けた。
「誘拐された母を救いだしに行くから、お前はここで留守番と見張りを頼むと父は僕にそう言って望遠鏡を渡して」
 どこかで訊いた話だ、と思った。すぐにあの本だと気づく。
 息子に見張りを任せ、囚われた母親を救いにいく父親。そこで終わる物語。
 
「そしてそのまま帰ってこなかった」

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