15 自宅学習期間になって、持て余すほど時間に余裕ができた。 しかし、雨宮の家に足を運んだのは、あれからかなり間のあいたバイトの日だった。 酒井先生に与えられた使命は俺にとっては存外に重くのしかかり、ずっと俺を憂鬱にさせていた。雨宮がなぜ高校に行っていないのか、行く気はないのか、何かやりたいことはないのか、これらを訊き出すだけでも大仕事だと思うのに、もしも雨宮が今のままでいたいといったら説得までしなければならない。 だいたい、人生経験の豊富な人間ならともかくも、同い年の、しかも俺なんかの言葉で、酒井先生の期待する方へ作用するともどうしても思えなかった。 とりあえず話を聞くことからはじめなければと、考えに考えて、俺は雨宮をどこかへ遊びに誘ってみることにした。 いつもと違う環境だったら口が滑らかになるかもしれないし、雨宮が不愉快に思ったらすぐにお開きにできる、そう考えてのことだ。 酒井先生は雨宮を誘っても10回に1回しか頷かないと言っていたが、かえってそうと知っているおかげで断られてもダメージはきっと少ないと思うし、だめもとで誘ってみる価値はある。 とりあえずそう心を決めて、俺は雨宮の部屋に続くインターフォンを押した。 しかしそのことはなかなか言い出せなかった。 それは俺の方に問題があるのではなく、雨宮の様子が変だからだ。 まず、話す時はたいてい人の目をまっすぐ見て話す奴なのに、俺をちらりとも見ようとしない。 一本調子の口調は相変わらずだが、いつもよりほんのわずかに返答が遅く、何かあったのかと聞いても何もないの一点張りだ。 今日は虫の居所が悪いのかと思って、俺が帰るというと、まだ時間が早い、帰らないで欲しいといつものように言葉だけは直球を投げてくる。 どうやら嫌われたわけでもなさそうだが、何も話してくれないので俺にはもうわけがわからない。 こんなにわかりにくい雨宮は初めてだ。出会ったばかりの頃と比べ物にならないほどの居心地悪さを感じたが、帰らないで欲しいといわれた手前、適当に理由をつけて帰る気にもなれなかった。 仕方がないので、黙々と雨宮と二人で残りすくない本棚を浚う。 それにしてもここまで無いとなると、この部屋の本棚にはないのかもしれない。 一度みた下の事務所の本棚の数を思い出して、あそこを捜索しなければならないのかと思うとげんなりした。きっとその手間と時間はこことは比べ物にならないだろう。本棚の数が違いすぎる。 「……やっぱり、下なのかな」 俺のぼやきには雨宮は答えなかった。ほとんど独り言だったのでそれは特に気にせず次の本を手に取ったとき、返事が戻ってきた。 「…何?」 「え、えっと、ここになさそうだから下なのかなって。それだけ」 「そう」 そう言ったきり雨宮は黙りこみ、またもや沈黙が訪れた。 普段は雨宮といる時に会話が何もなくてもまったく気にならないが、今日はなんだか沈黙が重く感じられる。 やがて、雨宮は頭を冷やすとわけのわからないことを言い残して望遠鏡と共にベランダへ行ってしまった。 それを見届けた後、肩から力が抜けるのを感じた。どうにも緊張する空気だ。今日はなんだか俺もおかしい。 気持ちを入れ替えるように息を大きくついてから、俺は作業を再開した。 だけどつい雨宮の様子が気になってしまって、本を確認しながらベランダに目を何度も走らせてしまう。 そうしているうちに、いったいどこまで本を確認したのかうっかり失念してしまい、それと同時にやる気も失せて、もう今日は諦めることにした。 時計に目をやるとまだいつも帰るより早い時間で、少し悩んでから、雨宮と話してみようとベランダへでてみた。 俺が来たことに気づいても、雨宮は手にした星図を見たままこちらへ目を向けようとしなかった。 だけどそれが振りだというのは、動かない視線ですぐにわかり、俺は小さくため息をついた。 すると突然雨宮が言った。 「何」 「え?何って何?」 何、なんて俺の方が聞きたいことだ。 「ため息」 内心、聞かれていたことに驚きつつ、なんでもないと返して、俺は雨宮の側に行った。それでも雨宮は俺を見ようとしない。本当に何かあったんじゃないだろうか。 「あのさ、何か…」 「さっきも言った。特に何もない」 言葉をさえぎるように言われて、ちょっとむっとくる。 「……なら別にいいけど」 声に不機嫌さが出てしまったのはわかったが、構わないと思った。だけど次の瞬間にはなんで雨宮にこんな態度をとられているのかわからなくて、悔しいような悲しいような、言葉にしがたい気持ちにとらわれる。 いったい、なんで俺はこんなに情緒不安定なんだろう。 すると、雨宮は顔を少しだけ俺に向けて行った。 「…悪かった」 その呟きのような謝罪の言葉に、先ほどのごった煮のような感情は一瞬にして消え去り、今度は焦りに似たものが湧き上がる。ほんとうに情緒不安定もここに極まれりだ。 「いや、俺もごめん。しつこかったよな。何もないならいいんだ。ごめんな」 もう何も聞かないと言外に含んだつもりだったのに、雨宮は言葉を探すように視線を揺らし、静かに言った。 「…悩みができた。誰にも話せなくて、どうしたらいいのかわからない」 「悩み?」 恋の悩みかと思い当たってぎくりとする。 聞いてみたいという気持ちと、決定的な言葉を雨宮の口から聞きたくないという気持ちの間で、続ける言葉が見つからなかった。 しかし、ここは、友達なんだから話してみろと促す局面だと気づき、そう言おうとすると、それよりも先に雨宮が言った。 「…それは君には話せない。でもたぶんきっとすぐに慣れるから大丈夫。今は戸惑っているだけ」 「…そっか」 出鼻を挫かれて気が抜けて、俺はサッシにへたりこむように腰をおろした。 [*前へ][次へ#] [戻る] |