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12
 受験シーズンを目前にして、外の大学を受験する生徒のため自宅学習に切り替わった。
 俺を含めて既に上の大学に進学が決まっている大半の生徒にとっては、かなり早い春休みといったところだ。
 最後の授業の日は午前中のみだったので、俺はクラスの友達と午後は遊んでから帰った。
 帰宅が思ったより遅くなってしまって、家の玄関のドアを開けると、奥のリビングから妹の声が聞こえてきた。それにかぶせるようにして強い父の声が続く。
 父と妹が言い争うのは妹が思春期を迎えたころから時々あったことだ。たいてい、妹がヒステリックに主張を叩きつけて、父がそれを一刀両断にはねつけるという感じだったが、その日のものは少し違っていた。
 妹は激昂しだしそうになるのを無理やり抑えているような震える声で、逆に父は少し感情的になっているようでいつもより声が大きかった。
 このまま能天気にただいまと割って入っていいのかどうか、ひとまず自分の部屋にいこうかと考えていると、洗面所から母が姿を見せた。
「あら、おかえり」
「ただいま。なんか食うものある?」
 存外に明るい母の顔に、ほっとして尋ねた。
 その日は友達と遊んで帰るので食事はいらないと連絡してあったが、夕方に軽く食べただけだったので空腹だった。
「ごめんね、今日なんにもないの。なんだったら、このまま外でなんか食べてきたら。お父さんたちもお聞きの通りだし」
 そう言って母は呆れたように笑った。
「どうしたの?あれ」
「なんかね、あの子高校で留学したいとか言って、それで進路も決めたらしいの。そのことで話し合い。もう2時間もあの調子でお母さん疲れちゃった」
「俺、間に入ろうか?」
「ううん。ここまできたら気が済むまでやらせといたほうがいいから。お兄ちゃん間に入ったらまた再燃するかもしれないし。お金あげるから食べてきなさいよ」
 そう言って母は財布を取りに奥のリビングに向かい、俺は上がり框に腰掛けた。聞こえてくる声に耳を傾けていると、いつの間にか冷静さを保っていた妹の声は、何がきっかけだったのか大きくなっており、逆に父の声は妹を宥めるものに変わっていた。
 母がリビングの扉を開けると、父と妹の言い争う声ははっきりと俺の耳にも届いてきた。
「これがお兄ちゃんだったらいいって言うくせに!」
「言いません。第一、あいつがそんな浮ついたこと言い出すはずないだろ」
 それは妹へ向けられた言葉のはずなのに、ぎくりと身が震えた。まるで、自分の密かに抱いていた願望に釘を刺されたようで。
 すぐにドアの閉まる音がして、二人の話し声は再び遠ざかる。それでも父の言葉が耳から離れなかった。
「…帰りにおつりで牛乳買ってきて。低脂肪ね」
 そういいながら母が戻って来て、俺はこわばった表情に気づかれないように千円札を受け取った。
 
 
 夜道を歩きながら考えた。
 妹のやろうとしていることを浮ついたというのなら、俺は一体どうなんだろう。
 今まで、なんとなくでしか行動していなくて、具体的なことは何も考えていない。
 どこへいつ、どのくらいの期間いくのか。大学の長い夏休みを利用していくのか、あるいは途中で休学して長期間行くのか。
 親を説得できるのか。せっかく浮ついたことを言わない堅実な子どもだと思われているようなのに、もしも休学なんて言い出したら、両親を落胆させないだろうか。
 休みの期間ならまったく問題ないだろうが、それで自分が満足できるのか。それが一番自信がない。
 たとえば休学して留年したとして、その後、就職先に困ることになるんじゃないのかという未来のことから、休学なんてことをするくらいなら、はじめから進学なんてしなければよかったんじゃないのかと過去のことまで夜道を歩きながら思いを巡らせる。
 途中で、駅とは逆の叔母の店の方に足が向っていることに気づいたが、引き返すのも面倒なのでそのまま行くことにした。
 店を覗いてみて客が少ないようなら、何か食べさせてもらうことにしよう。
 運河に架かる橋に差し掛かると、河を渡って吹いてくる強い風に身が縮んだ。
 新月で月明かりはなく、風で払われたのか雲のない空に星が瞬いてみえる。それを見上げて歩きながら、ぼんやりと考えた。
 知らない景色を見に行くとか、人との出会いを求めてとか、経験を積むためとか、俺のどこかへ行きたいという願望にはそういう目的が抜け落ちている。
 自分でもこの衝動の源を説明できないのに、両親に理解してもらおうなんて土台無理な話だ。
 いい加減、あの本と会ったときから見続けていた夢から醒める時が来たのかもしれない。諦める方がいいと思う。諦めるべきだ。
 だけど、それでも往生際悪く思ってしまう。
 誰かが俺に目的を与えてくれないだろうか。なにかの物語のように、世界のどこかにある宝物を探し出すようにとか、誰かを探しにとか。
 目的さえあれば、どこかへ行けるような気がする。
 そんな他力本願なことを思う自分が嫌で、俺はため息をついた。
 
 
 いつもは自転車で来る道を、長い時間かけて歩いてきた俺は、シャッターの閉じた店を前に落胆の息をついた。
 叔母の店が今日は定休日だということをすっかり忘れていた。
 仕方がないのでコンビニで弁当と母に頼まれた牛乳でも買っておとなしく家に帰ろうかとも考えたが、ふと気が変わって俺はビルの入り口に周りエレベーターに乗ると最上階のボタンを押した。
 彼が居ることを示すようにそのボタンのランプはつき、エレベーターはゆっくりと上へ上がっていく。
 最上階に着いて、いつものようにインターホンを押す。すると、すぐに雨宮の声がした。
『鍵は開けてあります。帰るときは教えてください』
「えっ?」
 突然の言葉に思わず声をあげると、一瞬の沈黙の後、確かめるような雨宮の声がした。
『―― 吉野?』
「あ、うん。ごめん。こんな遅く。お客さんならこのまま帰るよ」
 言いながら、なぜ自分が彼に会いに来てしまったのか不思議に思った。
 突然訪ねるには遅すぎる時間だし、そもそも俺は食事をしにきたんだから、彼に用はなかったはずだ。
 雨宮だってきっと迷惑だろう。彼の返事がどうであれ、今日は帰るべきだ。
 本当にそう思っていたのに、構わないと応える雨宮の声に俺は非常階段への扉を開いた。

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