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 やがて他の客も入り始めた。
 程よい忙しさのおかげでそれほど雨宮を気にせずに済んだが、それでもあのテーブルが気にかかった。
 聞こえてくる会話から察するに、二人の年配の男の人のうち一人は作家で、他の人は編集部の人のようだ。
 しゃべっているのはもっぱら酒井先生とその向いに座った女の人で、雨宮は時折コメントを求められて何事か返していた。
 思えば、あの部屋以外で雨宮を見るのは初めてだ。背が高いからか、それとも落ち着いているせいか、大人に囲まれていても不自然な感じがしない。あの雨宮が、こうしてみるとさほど周囲から浮いて見えないのが少し不思議だ。
 俺が側を通るたび、雨宮がその動きを一瞬とめることにすぐに気がついた。もしかして雨宮はあの日のことを俺に悪いと思っていて、俺を気にしてくれているのかもしれないが、どのみち改めて謝られたら余計に惨めになる類のことだ。だから俺はなるべく彼と目を合わせないように努めた。
 酒井先生たちのテーブルは俺があがる頃合いになっても、話も笑い声も途切れず、盛り上がっているようだった。
 雨宮は酔った酒井先生に時々頭を小突かれたりしていて二人が親しいのが見て取れて、俺はそれがなんとなく面白くなくて、ゴミを捨ててから帰るという名目で裏口から帰ることにした。本来なら顔見知りなんだしあのテーブルに挨拶に行くべきなんだろうが、もう雨宮を見ていたくなかった。
 叔母と交代でバイトに入る大学生に挨拶をして、俺はゴミ袋を手に勝手口から出た。
 
 
 ビルの共用のゴミ置き場にゴミ袋を置いて、きっちりとネットをかける。
 手が汚れてしまったので、掃除用の水道で手を洗った。水は凍るように冷たく、手がかじかんでしまってゴミ置き場の鍵をかけるのに少し苦労した。
 手を握ったり開いたりして、指先をなんとか暖める。
 そうしているうちに、セキュリティカードを渡された時に触れられた雨宮の手が温かかったことをぼんやりと思い出した。
 きっとあの限られた空間でずっと顔をあわせていたから、俺は勘違いしてしまったんだろう。
 彼の世界は自宅の他はあの部屋が全てで、そこに行くことを許された自分が親しくないはずがないと。
 だけど、雨宮にも客は来るし、タクシーに乗って出かけたりもするし、実際は全部違っていて。
 思い切りため息をつくと、冷たい空気の中で白い息に変わった。
「…ちょっと感じ悪かったかな」
 気にされているのはわかっていたのに、話しかけないどころか、目もあわせなかったのはまずかったかもしれない。
 それに雨宮にしてみれば、部屋に上げて本を探させてやったのに何も言わずに姿を見せなくなった俺は無礼この上ない奴だろう。
 やっぱりこの機会に雨宮に挨拶して帰った方がいいと俺は再び勝手口に向おうとした。
「吉野」
 すると後ろから声がして、心臓が止まりそうになった。慌てて振り向くと地上への短い階段のところに雨宮がいた。
「あ、えっと…久しぶり」
 久しぶりも何も、さっき店で会ったばかりだ。間抜けなことを口走ってしまった。
 雨宮は俺の方へ来ると、思いつめたように口を開いた。
「君に話がある」
「なに?」
「上で」
 そういうと雨宮は俺の手首をやんわりと掴んだ。雨宮の手は相変わらず温かくて、冷えた手に心地よく感じられた。
 そのまま促されるように引っ張られて、その妙な図式に気づいて俺は慌てて言った。
「わかったよ。行くから、」
 手を引っ張るなと言いかけて、俺は息を飲んだ。
 雨宮の手が手首から放れて、すぐに俺の指を覆うように包み込んだからだ。
「指が冷たい」
「……さ、さっき水で洗ったから…かな」
 もしかしてなくてもそれは手を繋いでいる状態と言っていい状態で、もはや俺にはどうしたらいいのかわからない。
 この微妙な状況で振り払うのもどうかと思うし、誰に見られるわけでもないだろうと俺はそのままにしておいた。

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