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 小学生のころ住んでいた家の近くに、町内会で運営している「こども図書館」というのがあった。
 公園の敷地の一画に使わなくなった電車の車両を利用して作られたその小さな図書館は、児童書や絵本、学習漫画なんかがふんだんに置いてあって、俺も土曜の午後には妹や近所の友達と連れ立ってそこへよく遊びに行ったものだ。
 妹の目当てはもっぱら公園の遊具だったが、俺はその「こども図書館」に置かれていたある児童書が気に入っていた。もう何度借りて読んだかわからないほどだが、その本の貸出カードには俺の名前しかなかったように記憶しているから、あまり人気がある本ではなかったのかもしれない。
 その本の主な登場人物は父と母と息子で、その父親が主人公という、子ども向けにしては少々かわった設定の冒険ものだった。
 大筋は、帆船で旅をする一家がいろいろな国を訪れてはさまざまな事件と直面するというありふれたもので、物語の中盤で母親が悪者に攫われ、父親が四苦八苦して悪者を追い詰めるもすんでのところで逃げられてしまい、妻の奪還を誓うところでその物語は終わっていた。
 いま思えば終わりは尻切れトンボだし、展開としても目新しいところの無い話だ。
 だけどその主人公である父親がかっこよくて、子どもの俺は彼に夢中だった。明るくて豪快でどんな困難に怯むことなく立ち向かっていく父親は、男のあるべき姿のようにすら思えた。
 やがて俺の家は隣町に引っ越して、その「こども図書館」にはまったく足を向けなくなった。いつしか自然とその本の細部は忘れていき、作者や出版社などは思い出せなくなってしまっている。
 だけど、その本は俺の人生に多大な影響を与えたことは間違いない。
 さすがに自分で船を持って別の国へとはいかないが、いつかあの一家のように旅に出たいと願うようになった。
 成長するにつれ漠然としていたその願望は強くなっていき、件の本で父親が「旅立つには助走の期間が必要だ」と言っていた影響もあって、俺は親に頼み込んで英会話教室に通わせてもらったり、お年玉は使わずに貯金したり、いつか願いをかなえるために考えられる出来る限りのことをするようになった。
 その「助走期間」は、なんとなくずっと高校生までだと思っていて、付属の大学の優先入試も無事に受かって進路が決まった今、俺は妙な焦りを覚えている。
 旅に出ることだけは自分の中では決まっている。
 だけど、自分が何を求めて旅にでるのかということだけが間抜けなことにわからないのだ。
 特別見てみたいと思う遺跡や建造物や風景は特にないし、会ってみたいと思うような人物もいない。どうやら、「旅すること」を目的にしてきた俺は、成長過程でその方面でのアンテナを広げそこなったようだ。
 自分の中を探れば探るほど行き詰ってしまい、原点にもどってあの本をもう一度読んでみようと本屋や図書館を巡ってもみたが見つからず、あまりに抽象的すぎて誰かに相談もできない悩みを抱えたまま、今は卒業までの貴重な時間をただ過ごしている。
 たとえるなら順調に加速していた助走が、踏み切り台直前で突然失速してしまった時のようなそんな感じだ。
 
 
 叔母の店である「吉野」は、運河に面して立ち並ぶ工場群と新しいオフィスビルの境目にある雑居ビルの半地下にある。
 めんどくさがり屋の叔母は、自分の旧姓をそのまま店の名前にしたそうで、その店名のイメージゆえに関西風の料理を求めてくる客をがっかりさせているらしい。
 俺は例の旅の資金を貯めるため、高校に入ってからずっとここで週末だけ働かせてもらっている。さすがに付属の大学の優先入試の辺りはずっと休ませてもらっていたが、それを無事パスした今では、心置きなく労働に精を出すのみだ。
 叔母の店は昼間は定食屋、夜から居酒屋という形態で、寂れた店のわりには固定客もついてそれなりには繁盛しているようだ。バイトは俺のほかには大学生が二人と主婦の人がいて、主婦の人は平日の昼間、大学生の人たちは平日の夜と土日は俺と入れ替わりに入る感じだから、あまり彼らと親しくは無い。
 俺の仕事はおもに接客や皿洗いや居酒屋に変わる前の掃除や仕込みの手伝いだが、その日は、バイトのあがる時間の少し前に初めての仕事を与えられた。
 俺と交代で入る大学生に言われて奥の厨房へいくと、叔母がなにやら細々と作業しているところだった。
「なにこれ?もしかして俺に?」
 叔母の手元のプラスチックの重箱の中身を見て、俺は尋ねた。重箱には筍のふくめ煮や切り干し大根など地味ながら店で好評を博している惣菜と、白ゴマのかかったご飯がつめられている。
「あんたは義姉さんのご飯が待ってるでしょうが。これね、出前なのよ。あんた帰りがてら届けてきて」
「出前?そんなのうちやってたの?」
 叔母はその重箱の蓋をしめてビニールの風呂敷でつつむと、今度は発泡スチロールのお椀型の容器をとりだし、それに豚汁をよそりはじめた。その豚汁も店でだしているものだ。
「3年前くらいにチラシ配ったっきり注文なんか数えるほどしか来なかったからあたしも忘れてたんだけどね。どうしたことか今日電話が来てね。ご近所さんだし断るのも何かと思って」
 そういいながら叔母はさらに手を動かし、見る間に豚汁は容器のほとんど淵の端まで注がれた。
 この辺りは埋立地で坂などはほとんどないが、そんなになみなみと注がれた豚汁を無事に運ぶ自信は俺にはない。
「そんなに入れると零れるよ。六分目…せめて八分目くらいに減らして」
「平気、平気。だって配達先このビルだもん。一番上のオフィスアマミヤさんね」
 この店の入っているビルは、他には会計事務所やら小さな貿易会社やらいろんな会社が入っている。一番上には何の会社が入っていただろうか。よく覚えていない。
「そのオフィスなんちゃらの誰さんに持ってけばいいの?」
「雨宮さんだって。御代は1260円でこれ領収書ね。よろしく」
 弁当にしては結構高いその値段に、出前の注文が今まで来なかった理由がわかった気がした。

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あきゅろす。
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