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遙か 番外編
前編
『特にどこも行かなくていい』

 春休みに東京へ遊びに来るという篠井に、どこに行きたいかと尋ねたメールの返事はその一言だった。
 篠井のメールはいつもそっけない。それをとうに知ってはいたが、それでもはじめの頃は篠井が何か怒っているんじゃないかと心配になって電話してしまったりした。だけど、電話の向こうの篠井はいたって普通というかむしろ上機嫌なほどで、彼にとってはこのメールが普通だということに俺はやがて慣れた。
 しかし、こうした相談に対してもこの調子では話にならない。バイトの関係で1泊しかできないというから、なるべく効率を考えて予定を立てたいと思っていたのに。
 時計を見るともう0時を回っていて、携帯とはいえ電話だと迷惑になるかもしれないと俺はさらに返信を打つ。
 篠井は俺の家に泊まることになっているのだが、俺の家の近所は本当に遊ぶところも観るところもなく、店だって篠井の地元にもあるようなスーパーとかチェーン店とかくらいしかない。
 俺はそのことに加えて、渋谷とか原宿とか秋葉原とかベタだけど東京タワーとかお台場とか、渋いところで浅草とか上野とかいくつか候補を挙げたメールを送信した。
 まもなく篠井から返事が来た。相変わらず一文だ。
『亮くんがどっか行きたいならそこでいい』
 その返事に肩を落とし、俺は携帯を手にしたままベッドに寝転がった。
 篠井自身がどこにも行きたくないならそれでもいい。
 ただ、どこかに行かなければ指輪は買えない。まさか、あの約束を篠井は忘れてしまったのだろうか。
 もしかしたら篠井は無かったことにしたいのかもしれない。俺とは普通の友達に戻りたいとか思っている、とか。
 距離が離れた途端に気持ちが醒める。よく耳にするありがちな話だ。
 思えば、もともと女癖は悪い奴だったし、だいたい女の子の方だって彼を放っておくだろうか。背が高くて綺麗な顔をしていて人あたりが良くて…ちょっと可愛いところがあって。
 考えれば考えるほど不安は募る。
 篠井の別れ際の真摯な告白を思い出して気を静めようとしたが、一度沸いた不安はなかなか消えそうもなかった。
 とりあえず篠井に会っても、俺から指輪のことは口にしないほうが彼にとっては都合がいいだろう。
 そう考えるとたまらなくなって、俺は無理やり眠るために目を瞑った。
 
 
 篠井の来る当日、不安と緊張を抱えつつ俺は特急の止まる駅まで迎えに行った。
 やがて電車が来る時間を少し過ぎ、改札を通ってやってくる人ごみの中に頭一つ分でている目立つ人影をすぐに見つける。篠井も同時に俺を見つけたようで片手をあげると小走りで近寄ってきた。
「東京って人すげえな。どこもそう?いつもこんなもん?」
 顔をあわせるなり面食らったようにそういう篠井に思わず笑ってしまった。
「ここは特別だよ」
 俺がそういうと篠井はそっかと言って、はにかんだように笑った。
「すっげー会いたかった」
 ストレートにそう言われて、俺はその言葉と篠井の笑顔に心臓が高鳴って堪らず俯いた。顔が熱い。なんだこのものすごい恥ずかしさは。
 久しぶりに見る篠井は、なんというかものすごく格好良かった。馬鹿みたいな話だが、笑顔が眩しくて正視に堪えないほど。
 まさか同性に対してそんな風に感じてしかも顔を火照らせる日が来るなんて思いもしなかった。
「…うん」
 俺はもう口の中で呟くように返事するのが精一杯だ。「俺も」とか返した方がいいのだろうが、とても無理そうだ。胸が詰まって何もいえない。
「誰もいなかったらぎゅーっとするんだけどな」
 俺の気も知らずにそんなことを言う篠井に、もはやいたたまれなさに近いほどの気恥ずかしさを感じつつも自分が感じていた不安が杞憂だったと安心する。
 どう返したらいいのかわからなくて、俺は息を吸ってから、さりげなく話題をそらした。
「…あのさ、これからどうする?本当にどこにもいかなくていい?」
 篠井は俺の言葉に首を傾げ、難しそうな顔をした。
「んー、実をいうと行きたいところがないわけじゃないんだけど…。でもそれだとたぶん亮くんがつまらないと思うんだよね…」
「なんだ。遠慮するなよ。いいよ、どこでも」
 俺がつまらないところというのに却って興味をひかれる。案外、篠井には俺の知らない趣味があって、変わった博物館とか、あるいはなにかの専門店とかに行きたいのかもしれない。
 しかし篠井は俺の予想から外れた答を言った。
「んーと、亮くんが通ってる学校とかいつも行ってるコンビニとかそういうところに行きたい」
「…学校?なんで?」
「亮くんのこと考えるとき、そういう部分だけわかんないからさー…」
「な、何言ってんの」
「家はこれから泊めてもらえるからわかるけどさ。亮くんがどういう学校行ってるのかとかいつもどこにいってるのかとか、そういうのがさ、知りたいんだよ。…やだ?」
 篠井は俺の顔色を伺うように少し不安そうな顔をして、俺はほとんど反射的に首を横に振った。
「いや、篠井がそれがいいならそうしよう。ほんと普通の学校だけど、それでもいいなら」
「いいの?マジ?…あ、これ、お土産。母ちゃんから」
 嬉しそうに笑う篠井から、少し重い紙袋を受け取る。
 
 篠井を地下鉄の方へ案内しながら、まったく変わっていないような彼に俺は内心安堵の息を吐いた。

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