遙か
8
守ってくれるという申し出は断ったものの、結局、篠井と話す機会が多くなったせいか、周りの態度は多少は軟化して来たようだった。
あからさまな無視ということはなくなり、落としたものを拾ってやれば軽く礼を言われるし、一度など朝に昇降口で顔を合わせた時に挨拶らしきものをされたこともあった。とは言ってもそれは篠井の周りにいる奴らに限ったことで、その他の、特に俺がカンニングを断った奴らの一派には相変わらずの扱いを受けていた。
そんな微妙な均衡を保ったまま、やがて、誰とも何の約束もないまま夏休みを迎えた。
東京の友達からは遊びに来ないかと誘われたのだが、あいにく友達の都合のいい日程は父が長期で出張することになっており、その間、母を一人にするのも心配なので涙をのんで断った。
こうなったら一人の夏休みを満喫してやろうと、俺は精力的に動き回った。
自転車で遠出してみたり、自宅の横を流れる川に沿って散歩してみたり、母がこちらに来てから凝りはじめたガーデニングを手伝ってみたりといろいろやってみた。
だけど、いかんせん俺はインドア派で、8月に入るころには既に外で動き回ることに飽きてしまった。
そんなある日、篠井から、調べたいことがあるのでパソコンを使わせて欲しいという電話があった。
俺の部屋に父からもらったパソコンがあるということは話した覚えはあったが、それを篠井が覚えていたことにびっくりした。
断る理由もないし、何より退屈していたので承諾すると、篠井はすぐにバイクで俺の家に来た。
バイクを庭に停めさせて俺の部屋に案内すると、篠井は離れをひどく羨ましがった。彼の家は商店街の中にあって、それほど広くないそうだ。
「でもトイレのたびに鍵持って一度外でるの面倒だよ」
「えー、そんなの別にいいじゃん。一人暮らしみたいでさ、いいよ、ここ」
入るなり篠井はじろじろ俺の部屋を見始めた。
特に本棚に並んだ漫画が気になるようで、目をとめてものほしそうにひとしきり眺めた後、思い切るように視線を外した。その仕種がちょっとおかしくて笑いそうになる。読んでもいいよと誘惑してみようかとも思ったが、ちょっと意地が悪すぎると思いとどまって、パソコンの前に促した。
「何調べるの?」
後ろから覗き込むと篠井は案外慣れた手つきでキーボードを叩いた。
「んー、ブランドの店。この辺だったらどこが近いのかなって」
ああ、彼女にか。プレゼントだろうか。
「お姉さんに聞けばいいのに」
「…あった。街のデパートに入ってるみたい」
またお姉さんと一悶着あったのか、篠井は俺の言葉をさりげなく無視した。
このあたりでは県庁のある市のことを地名で呼ばず、「街」と呼んでいる。そこはここからだと車で30分、電車だと乗換えをいれて1時間かからないくらいの距離だ。
そのブランドのサイトには扱っている商品も載っていて、篠井はそれを見始めた。
「どういうのがいいんだろうな」
「女の子の友達に聞いてみれば?」
「んー、他の女に選ばせるのって失礼じゃね?」
ごもっともだ。邪魔をするのも悪いと思い俺は言った。
「そっか。好きなだけ見てていいよ。俺、本読んでるから」
そして俺は本を手に寝転がった。
しばらくはマウスのクリック音だけが部屋に響いていたが、篠井は、これはどうかだの、これとこれだとどっちがいいかだのと、ことあるごとに俺を呼びつけ、結局、最後には二人で肩を並べてモニタを見るはめになった。
ブランドものといっても値段に幅があって、高いには高いがそこそこの値段のものもあった。俺がその辺りの値段の、デザインがシンプルなものを勧めると篠井は首を横に振った。
「ちょっと安すぎ。こっちどう?」
そういって篠井が指差したのは俺がすすめたものとは桁がひとつ違ったが、なにやらゴテゴテしていて指にするのは痛そうに見えた。
「ちょっと派手じゃない?彼女、仕事とかしてるんだろ。あまり邪魔にならなそうな奴のほうが」
俺が言うと篠井はモニタから目を離し、俺を見て感心したように頷いた。
「そう、そうだよな。…そうだ、斉藤さ、指輪買いに行くのつきあってよ」
思いもかけない誘いに俺は一瞬頭が真っ白になった。
「俺、今週の金曜がいいんだけど。んでさ、悪いんだけどその日お前のうちに泊めてくんない?午前中に出発してさ、あっちで昼飯食って買い物して、ちょっと遊んでさ」
どんどん話をすすめられて、つい返事をするタイミングを逸してしまい何も言わずにいると、篠井は途端に不安そうな顔になった。
「…だめ?」
「え、いや、いいよ」
慌てて返事をすると、篠井は途端に相好を崩し、机の前から立ち上がると伸びをしながら窓の方へいった。
篠井は網戸ごと窓を開け、下を覗き込んだ。途端に風が吹き込んできて、いつのまにかクーラーがいらないほど外が涼しくなっていることに気づく。
「すげえ」
そう言うと、篠井は窓枠に手をついて乗り出したまま俺の方を振り返った。
「すぐ下、川じゃん。水の音がしてたのってこれかあ」
「そんな乗り出すなよ、落ちるよ」
「魚がいる。俺、釣竿もってこようかなー。あー、蛙うるせー」
そんなことを言いながら篠井はさらに身を乗り出した。シャツがひっぱられて背中がまるみえだ。
それにしても、篠井の行動と発言だけを追ってみると俺たちはまるで友達みたいだ。
家に遊びに来て、彼女へのプレゼントを買うのにつきあって、家に泊めて。
もっとも、普通ならもう友達だと思っても差し支えないと思う。だけど。
『期待をすると裏切られる』
その言葉が俺はどうしても忘れられなかった。
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