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遙か
6
 はじめこそ波乱に満ちていたものの、そのほかは何事もなく中間テストは無事に終わった。
 テストの結果は、がんばった甲斐もあってなんとか憧れの一桁の順位だった。もっと上位にいけるかと思っていたのだが、中には勉強ができる奴もいるのだということを俺は知った。とはいっても俺のクラス順位は一番だったので、それはうちのクラスの奴じゃないということは間違いない。
 あれから俺の環境の変化はほとんどなかった。
 相変わらず、漫画の発売日に篠井に声をかけられる以外は誰からも話しかけられず、帰りの電車までの時間を俺は図書室でひとりで過ごした。ただひとつ変わったことといえば、中間テストの結果が人生最高に良かったからということで、父親からお下がりのパソコンをもらったくらいだ。
 
 
 そんな生活に変化が起きたのは夏服になってしばらくたった頃だった。
 放課後、いつものように電車の時間にあわせて図書室で本を読んでいると、篠井がやってきて俺の隣に座った。
 偶然居合わせたことは一度だけあったが、こうして篠井がわざわざ俺のところへやってきたのは初めてだ。
「何?」
「斉藤に頼みがあるんだけど」
 あらたまってどうしたのかと思えば、篠井は晴天の霹靂とでも言うべきことを言い出した。
「俺に勉強、教えてくんない?」
「…数学の課題のこと?今日でたヤツなら、まだやってないよ」
 そう答えたものの、篠井は宿題をやってくるどころか提出日を無視しまくったあげく結局は出さないような奴だ。まあうちのクラスのほぼ全員がそうなわけだが。
 珍しいこともあるものだと思ったが、篠井は首を横に振った。
「違う。俺、大学行くことにしたんだ。だから勉強そのものの仕方を教えて」
「ええ?!」
 思わず声をあげる。
 相変わらず図書室にいるやつなんていないから気兼ねする必要もないのだが、俺は慌てて声をひそめた。
「大学って…どうしたの、一体」
 テストなんて適当に書いておけばいいとか言ってた奴が。
 俺が尋ねると、篠井は困ったように視線を巡らせた後、照れたように言った。
「…彼女が出来たんだ。その子のために大学出ておこうかなー…なんてさー」
 二重に驚いた。篠井は女には事欠かず、とっかえひっかえ遊ぶだけで決まった彼女はあえて作らないというのは聞こえてくる会話で知っている。
 だからその言葉はすごく意外だった。いったい、何の冗談かと思ったほどだ。
「彼女…」
「その子は特別なんだ。全部、その子のいいようにしてやりたいんだ」
 熱っぽくそういう篠井の眼はおそろしいほど本気だった。なんとなく羨ましい。
 そこまで想われている相手になのか、そこまで想える相手がいることなのにかはわからないけれど。
「あ、そうだ。漫画、もうくれなくていいから。俺、もう読まないことにした」
「え?」
「背表紙の厚い漫画読む男は子供っぽいから彼女、嫌なんだって」
「…子供っぽいって、彼女いくつだよ」
 中高生向けに作られたものを高校生が読むののいったいどこが子供っぽいっていうんだ。
 自分が読んでいることもあって、ちょっとむっとして尋ねた。どうせ大人ぶった文学少女気取りの女だろうと、あてこすりのつもりだった。
「25」
「にじゅう…?15?」
「にじゅうご」
 驚いた。けっこうな歳の差だ。というか、篠井の顔に痣をつくるほど激しいお姉さんのせいで20代後半の女は嫌だとかなんだとか言っていなかっただろうか。それを覆し篠井に勉強しようと思わせるほどの人物なのか。ちょっと見てみたい。
「そんな歳の人とどこで会ったの?」
「ナンパ」
 はっきりとそう言うと、篠井は俺に詰め寄るように顔を寄せてきた。
「で、どう?教えてくれる?」
 俺は困った。
 実を言えば、俺も取り立てて勉強が得意な方でもないし、教えるのも上手くない。
 そんなこともあって篠井から視線を外して答えを渋っていると、焦れたように篠井が言った。
「もし、引き受けてくれたら、お前のこと守ってやるよ」
 思いもかけない言葉に思わず篠井を見る。すると篠井はすごく真剣な顔で俺をまっすぐに見ていた。
 顔が思わず熱くなる。そんな綺麗な顔でそんなセリフを言われると、なんだか気恥ずかしい。
 俺が女の子なら、この瞬間、恋に落ちてしまっているかもしれない。
「いやー…。それは別にいいかな」
 火照った顔を篠井からそむけて隠しつつ、俺は控えめに辞退した。
 たとえば俺と篠井がすでに友達だとしたら俺はその申し出に飛びついていたと思う。
 だけど俺たちは友達ではなく、勉強を教えるかわりに苛めから守ってもらうというのは、それで篠井との間に乾いた関係が完成してしまうようでなんとなく嫌だった。
「なんで。ぜったいそのうち無視だけじゃすまなくなるよ?悪い話じゃないと思うけど」
 なおもいう篠井に、俺は仕方なしに言った。
「勉強の件は、まあいいよ。俺、説明するのとか下手だけど、それでよければ」
 言うと篠井はほっとしたような顔になったが、すぐに不服そうに口を尖らせた。
「でもそれじゃなんか不公平じゃん」
 その表情と言い方が子供みたいでちょっと可愛くて、つい頬が緩んでしまう。
 篠井はどうしても納得できないのか俺に説明を求めた。しかし、篠井と取引めいたことをするのが嫌だと思うのは、ほんとうに「なんとなく」なので説明のしようがない。しかし篠井は頑固にも引き下がらず、しかたなしに俺は譲歩案を出した。
「じゃあ、たとえばさ、俺が殴られたりしてるとこに偶然篠井が居合わせてさ、そんで篠井がその時俺を助けたいって思ったら助けてくれればいいよ」 
「なにそれ」
「んー、なんなんだろうな」
 自分の気持ちがうまく説明できず言葉を濁すと、篠井はさらに口を尖らせて変な奴と呟いた。

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