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遙か
5
 俺にしてはめずらしく準備に万全を期した中間テストの初日。
 教室に行くと俺の席のあたりに4〜5人ほどがたむろっていた。
 俺の前の席は篠井だったから彼が来るのをそこで待っているのかと思ったが、俺の顔を見るなりそいつらは親しげな、だけど胡散臭い笑顔を浮かべた。
「やー、斉藤君、待ってたよお」
 そのわざとらしいまでの猫なで声に嫌な予感がした。昨日まで俺を無視していたはずなのに、この手の平を返したような態度はぜったいに何かある。ここは適当なことを言ってとりあえず教室から逃げようかと迷っていると、そのうちの一人が大またで近づいてきて、俺の後ろにまわり、急きたてるように背中をぐいぐいと押してきた。
 そのまま席に連れて行かれ、肩に手を置かれて半ば無理やり座らせられる。
 机の周りをぐるりと取り囲まれ、その聳え立つ壁のような威圧感に、俺は恐怖を覚えて思わず俯いた。
 狙いは金か?こういうときはひとまずおとなしく出しておいたほうがいいのか?それとも一度だしたらこれからも無心が続いたりするのか?殴られるのを覚悟で突っぱねた方がいいのか?
 考えながらも背中に汗が伝うのを感じる。もしかしなくても、冷や汗という奴だろう。
「いよいよテスト開始だねえ」
「あ、ああ…うん」
「斉藤君、テスト勉強したあ?」
 切り出された話が金のことではなかったことにひとまず安心して俺は頷いた。
 すると奴らは目配せするように頷きあいにやりと笑い、それに嫌な予感が上乗せされる。
「俺さー、成績が超やばいんだよねー」
「なんかねー、こいつねー、リーチかかってるらしいよ」
 何のリーチかはわからないが、何を言いたいのかすぐにわかった。カンニングさせろと言っているのだろう。
 ああ、空気になりきれたと思って教室で勉強なんてするんじゃなかった。そうすればこんなことで絡まれずに済んだのに。
「んでね、斉藤くん頭よさそうじゃん。いっつもお勉強してるしさー」
「ちょーっと助けてやってくんないかなー」
 俯いたまま机の下で拳を握り、芽生えてしまった葛藤と戦う。
 普通なら即お断りするところだ。しかしどうしても環境が環境だけに自分の行く末を考えてしまう。もし断れば放課後にどこかに呼び出されて暴力を受けたりするのかもしれない、とか。直面した危機に、心臓が早鐘を打つ。
 暴力は嫌いだ。だけど、俺の答えは一つだ。
「…いやだ。じ、自分の力でやれよ」
 言葉の内容だけは威勢がいいが、声はものすごく小さく掠れていた。
「え、なになに?聞こえない」
 わざとらしく耳に手を当てて言ってくるそいつに、俺はもうやけになって、拳を握りなおし勢いよく顔をあげた。
 はっきり言ってやろうと唾を飲んでから息を吸う。
 その時だった。
「やめとけば?位置的に無理でしょ。一番後ろと一番前じゃん。どーすんの」
 その声に出番を奪われ、俺は間抜けにも口を開きかけたまま固まった。
 俺の前に立っていた奴が避けて前の視界が開ける。そこにはすごく気だるそうに髪をかきあげる篠井の姿があった。左目の痣は黄色く変色していて、おそらく治りかけてはいるのだろうが痛々しさがさらに増している。
 篠井は不機嫌そうに鞄を自分の席に乱暴に放りなげ、その音に俺の机を囲んでいるうちの何人かがびくっと身体を震わせた。
 しかしリーチとやらがかかっている奴は動ぜず、へらっと笑って言った。
「だからさー、こいつの答案、前にまわしてってさー。こそっと俺の名前に書き換えればいいかなーとか…」
 なんだ、それは。そしたら俺はどうなるんだ。
 篠井はそれを聞くと、眉間にしわを寄せてため息を吐いた。周囲には緊張が走る。
「…その答案まわしてくメンバーに俺も入ってるみたいなんですけど。そうだよね?位置的に」
 機嫌悪く言い放つ篠井に言った奴はさすがに怯んだようだったが、よほど困っているのか果敢にも食い下がった。
「篠井君、マジおねがい。俺、マジやばいんだって」
 俺の方がマジやばい。
 どうか篠井が断りますようにと俺は心の中で祈る。
 しかし、そう懇願されて悪い気はしないのか篠井は表情を和らげた。
「んー…。でもさ、やっぱカンペ作ってきた奴探したほうが絶対いいって。あ、そういえばあっちでそんなようなこと話してたよ」
「え、マジで?」
 そのまま話は別の奴らが作ったカンニングペーパーに流れていき、なにやら内輪で話がまとまったらしい一団は去っていった。
 人が周りからいなくなって俺はほっと息をつく。どうやら不正を働くことは免れたようだ。
 握ったままだった拳を開くと手が微かに震えていた。
 ふと気づいた。もしかして篠井は俺を助けてくれたのだろうか。それなら礼を言った方がいい。
 篠井は横向きに椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと首をまわしはじめた。その動作はほんとうにだるそうで、声をかけるのはためらわれたが、こういうのはタイミングを逸すると難しい。
「あ、あの、篠井。…ありがと」
「んー?なんのこと?」
 とぼけたように言う篠井に、知らないふりをするなんてなんて男らしいんだと俺は感動した。
 篠井は不良なのかもしれないが、たぶん正義の不良だ。
 篠井はゆっくりとまわしていた首を途中で止め、思いついたように俺に言った。
「あー、さっき協力してあげたかったんなら邪魔しちゃってごめんね。みんなと仲良くなれるチャンスだったのにねー」
「え?」
 協力、だって?篠井にはあの時の俺がそんな風に見えたというのだろうか。
「でも俺巻き添え食うのまっぴらごめんだったからさー。カンニングなんて見つかったら関わったやつ全員アウトじゃん。冗談じゃないっつーの。テストなんて適当になんか書いときゃいいのにさー」
 心底不機嫌そうに言う篠井に、あっという間に心がしぼんだ。羞恥で頬が熱くなる。
 てっきり俺のことを助けてくれたのだと勘違いした自分が恥ずかしかった。篠井は自分のためだけに動いたに過ぎないのに。
 
 ふと「親しげに話してくるけど篠井は冷たい奴だ」と言われたことを思い出した。期待すると痛い目を見る、とも。
 あの時は意味がさっぱりわからなかったが、こういうことかと思い知った気分だった。

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