遙か 19 「遥さ」 突然、出されたその名前に胸が鳴る。 「昔、自分が女同士の喧嘩に口出ししたのがきっかけでいじめられるようになったから、たぶん、俺にもそんな目にあってほしくなくて言ったんだと思うんだ。遥なりに俺を守ろうとして言ったつーか…。もちろんそれとあの時俺が卑怯者だったのは関係ないんだけど…。…でも亮くんには遥を悪く思って欲しくないから一応言っておこうかと思って」 「…うん」 俺があの時怒った理由とは少しずれていたが、俺は納得した振りをした。篠井が俺からすら遥を庇おうとするのに、改めて自分の入る余地がないように感じられて少し辛い。 「お姉さん、怒った?」 尋ねると篠井は俺の方に向き直って座りなおした。ジーンズが濡れて色が濃くなったところが、多少は薄くなっている。どうやら乾き始めているようだ。 「それどころか、よくやったって褒められた。それよか、母ちゃんが凄くてさ、事情はどうあれ自分より弱い人間に手をあげるような子に育てた覚えはないとかって怒って。3対1だったっつったら、今度はそんな人数相手にして殺されたらどうするんだとか言って泣き出すし。もう俺にどうしろっつーの」 そう言って篠井はどこか嬉しそうに笑った。 「…なんかさ、母ちゃんて俺が何しようがひたすら俺に気を遣ってるだけの人かと思ってたし、実際そうだったんだけど。なんか今はちょっと違うのかなとかさ。遥もさ、俺が言うこときこうときくまいと、あいつにとってはどうでもいいことだったのかなーとか。なんかね、今まで見えてなかったものが見えてきたっつーか…」 そういって篠井は口を噤み、何に思いを馳せるかのように視線を伏せた。 しばらくヤカンの立てる微かな蒸気の音と、川の音だけが部屋に響く。 不意に訪れた沈黙は俺にとってどことなく心地いいものだったが、それを破ったのは篠井だった。 「…あの後さ」 「うん」 話題が変えられたことに気づいて、なんとなく座り直す。 「証人が逃げちゃったから、あいつら何もしてないのに俺がいきなり殴りかかってきたとか先公に言いやがってさ。…いやまあ、たしかにいきなりだったんだけど。そしたら、亮くんが連れてきた学年主任がさ、そいつ俺の1年の時の担任だったんだけどね、俺が理由もなく暴力奮うとも思えないとか言って、担任も聞いた話と少し違うって言って揉めてたら、逃げたはずのあいつが戻ってきて全部話してくれてさ」 それを聞いて俺は自分を恥じた。 彼が逃げたと聞いた時、俺は少しだけ彼に対してに嫌な気持ちを抱いたのだ。 彼が何かにおびえながら俺に忠告してきた時のことを思い出す。きっと彼は弱くて臆病ではあるけど、正義感の強いまっすぐな人間なんだろう。もしかしたらもっと違う環境で会えたら、友達になれたのかもしれない。 「んでさ、あいつ、俺にありがとうとか言ってんの。俺、今まであいつが何をされてても何もしてこなかったし、名指しで助けてくれって言われても放っておいたこともあったのにな。それに別にあいつのために助けたわけでもないのに」 そう言って篠井は照れたような顔をして、長い足を抱えなおした。 「でもさ、俺は自分には遥しかいなくて遥さえ良ければどうでもいいと思ってきたし、周りも俺のことなんかどうでもいいんだろうとか思ってきたけど。なんかさ、そういうわけでもないし、たとえそうでも自分次第でどうとでもなることなのかなとかね、今度のことで、ほんのちょっとだけ頭で理解できた感じ。でさ、これからはもっと色々考えようと思うんだ。自分のこととか、周りのこととか。遥のことだけじゃなくて…」 そう言って篠井はまた黙り、膝に顔をうずめた。 その耳が少し赤いことに気づいた。ストーブが強過ぎるだろうか。 「…亮くん」 「うん?」 篠井の後ろのストーブの火に少し気をとられていると、不意に呼ばれた。篠井を見ると、篠井は視線をあげて、案の定赤い頬をして俺に言った。 「あのね。俺さ、そういう風に思えたの全部亮くんのおかげだと思うんだ。亮くんがあの時怒ってくれたからっていうのと…他にも色々」 ありがとうと篠井が呟いて、俺の頬も一気に熱くなる。でもこれはストーブのせいではなくて、ものすごい照れくささのせいだ。 「いや…俺…別に何も…」 しどろもどろになって言う俺に篠井はなおも言う。 「俺、どうしようもない奴だけどさ、これからは…まあ色々がんばるよ。亮くんに呆れられないように」 「…いや、俺が…呆れるわけないじゃん。別にさ、そのままだって、俺は」 言いかけて慌てて口を噤んだ。なんだかとんでもないことを口走るところだった。 「うん。亮くんそう言ってくれると思ってた。…でさ、まず自分のことを考えた時にさ。亮くんにどうしても言っておきたいことがあって。ほんとはもっと先の方がいいってわかってるし引かれるかもしれないんだけど、だけど亮くんまた転校とかなるかもしれないし…早いうちがいいって言ってたし」 「あっ…」 篠井が口にした転校という言葉に俺は思わず声をあげた。 篠井はその声に口を噤み、聞き返すように俺を見る。そのまっすぐな視線を捕らえているのが辛くて、俺はたまらず俯いた。だけど、クラスの友達には誰も伝えていないことを、その中の誰よりも早く篠井に伝えなければと思った。 「…俺、来月東京に引っ越すんだ。親父が転勤決まって」 「……え」 小さい声がしただけで、しばらく待っても篠井は何も言わず、俺は恐る恐る視線をあげた。 篠井は、何を言われたのかわらないというような顔をして、ただ俺を見つめていた。 そして、そのまましばらく固まっていた後、ひきつったように笑った。 「…え?来月?引っ越すって…。…ずいぶん急じゃん…嘘だろ?」 「急っていうか…今回は早く決まった方だよ。いつもだいたい1ヶ月前だし…」 篠井がショックを受けているように見えるのが、少し嬉しかった。彼が辛いと思ってくれることが嬉しいなんてどうかとも思うが、なんだか自分の気持ちが少し報われた気がして。 しかしその嬉しさはあっという間に消え失せた。ついさっきまで真っ赤だった篠井の顔はかわいそうになるくらい見る間に蒼白になり、その大きな瞳を涙が覆った。予想もしない篠井の過剰ともいえる反応に俺はなすすべもなくうろたえる。 「さ、篠井…?」 「亮くん…転校…?…するの?」 声も泣くのをこらえているように震えていて、転校なんて嘘だと嘘をつきたい衝動に駆られた。だけどそんな嘘をついても何もならないわけで、俺は頷くしかない。 「うん…。たぶん前の学校に戻ることになると思う」 「亮くん…平気そうだな」 「平気じゃないよ…。俺もみんなと別れるの辛いけど、仕方のないことだから。…それにこれが永遠の別れってわけじゃないだろ」 そうは言ったが、距離と時間が人と人の繋がりを希薄にすることを俺はわかっていた。だんだんメールも電話も新しい話題が少なくなり、自然に回数も減っていって、いつしか途絶えて、名前すらも忘れて。 「…転校してもさ、また遊びに来るよ。篠井が東京に遊びに来たっていいしさ」 それでも、いつも果たさせるかも果たしてもらえるかももわからない再会の約束をしてしまうのはなぜなんだろう。 「んなこと言って…亮くん、こっち来てから東京に遊び行ったことないじゃん…。ならさ、東京、引っ越したらこっちなんてこなくなるだろ。きっと」 「夏休みに遊びに行くって話もあったんだけど、都合が悪くて行けなかったんだよ。だからさ」 「ごめん。俺、帰る」 そう言って篠井は立ち上がった。 また川から帰るつもりなのかふらふらと窓の方へ向かったので、慌てて玄関へ向わせて門までついて行く。 外はかなり冷え込んでいて、上空は風が強いのか星が瞬いて見えた。こんな日に川に入るなんてとんでもない行為だ。 「あの…そういえば、俺に言いたいことって?」 門扉のところで尋ねるた。外灯が篠井のどこか亡羊とした顔を照らし、彼は何か言いたげに俺をしばらく見つめてから目をふせる。 「…前にさ、亮くん転校する日に女の子に告白されたっつってたじゃん。亮くんが名前忘れちゃってた子」 突然言われてびっくりした。よく覚えているものだ。 「その子は、きっと亮くんに自分のこと忘れて欲しくなかったんだろうね。自分が辛くても、亮くんが困るってわかっててもさ。…すげえわかるけど、俺には無理だな」 篠井は俺を見て、薄く笑ってから呟くように言った。 「…そんなに急に人間って変われないもんなんだね」 [*前へ][次へ#] [戻る] |