遙か
17
たまらず俺は篠井の腕を振り払った。
篠井は振り向くときょとんとして俺をみて、その何も感じていないような顔にさらに腹が立つ。
「…遥、遥って、またそれかよ」
「え?亮くん、どうしたの?なんか怒ってるの?…わかった、いいよ、亮くんが助けてやって欲しいんなら」
「ちょっとは自分で自分がどうしたいのか考えろよ!」
俺の言葉に篠井は動きをとめた。
篠井は突然手を離された子どものような頼りない顔をして、それでも俺は止まらなかった。
「お前の遥はああいうの見てみない振りしろって言って、お前はそれになんの疑問も持たずに従うんだ。遥が言ったからってただそれだけで?信じらんねえ。悪いけど俺には理解できない」
「だって…。じゃあ…じゃあさ、亮くんの言う通りにするよ。だから」
まるで俺をなだめるかのような篠井の言葉に目の奥が熱くなった。
篠井が、遥に嫌われたくなくて遥の言うことをただ聞き続けてきたことは知っている。ただ、篠井がこんな風に自分の行動の代償に何かを求めようとするのが俺には我慢できなかった。寛容や友情は服従の代わりに差し出されるものではないのに、そうとしか考えようとしない篠井に苛立ちが募る。俺は遥ではないのに、遥と同じように扱われるのがたまらなく嫌だった。篠井が言うことを聞こうが聞くまいが俺にとってはどうでもいいことなのに。
「遥が言ったからとか俺がどうとかじゃなくてさ。自分で決めろよ。篠井、俺のことは助けてくれたじゃん。携帯とられた時。あの時みたくさ。…それとも」
混乱しているかのように揺れる篠井の視線を捕らえて見つめ返す。
「それも『遥が言ったから』だった?違うだろ?」
篠井は困ったような顔をして俺から目を逸らした。
しばらく待っても篠井は何も言わず、それが彼の答えだと悟り、俺は堪らなくなって篠井に背を向ける。
「…亮くん!ごめん。…ねえ、俺、ほんと、どうしたら」
「…好きにしろよ!」
篠井に言い捨てるように答えて俺は足早に教室へ向かった。
馬鹿なことをきいてしまった。
篠井が自分を助けてくれた理由なんてどうでもいいと思っていたはずなのに、結局俺は、あの時篠井が俺を助けてくれたのは俺のためだと心のどこかで自惚れていたんだろう。実際はそんなことは全くなくて、篠井はたぶん遥の決めたルールに従って俺を助けたにすぎないのに。
篠井の世界は遥が全てで遥が絶対で遥しかいないのに、勘違いしていた自分はあまりに滑稽だと思う。俺と篠井は、遥の存在の上に成り立っていた関係だとわかっていたはずなのに、篠井を好きになった自分はどうしようもない馬鹿だ。自分で自分が嫌になる。
教室の扉に手をかけたとき、俺一人で立ち向かうより職員室に行って先生を呼んできたほうがいいと気づいた。
どうせ教師が来たらああいう奴らはしらばっくれるのだろうが、俺がいっても一緒に痛い目にあうのが関の山だ。告げ口したことで、後々余計に面倒なことになりそうだが、今確実にやめさせるにはそれしかない。
去り際に窓ガラスを覗いて、まだ決定的な暴力には至ってないことを確かめる。
気づかれないようにその場をそっと離れ、廊下を走って職員室のある階へ続く階段に着いて下りようとした時、後ろでガシャンと大きな音がして思わず足を止めた。
ふりかえってみてもそこには誰もおらず、俺はいよいよ何かが教室で始められたのかと慌てて職員室へと向った。
職員室に担任はいなかった。
もう遅い時間のせいか残っている先生自体少なくて、その中で頼りになりそうな三年の学年主任と体育教師の二人を従えて俺は教室に戻った。
やけに静まり返っている教室の扉を開けて、予想もしなかったその惨情に俺は愕然と立ち竦んだ。
一人はぐったりと床に横たわっていて、一人はそいつを覗き込むようにして傍らに膝をついている。囲まれていた奴はどこにもおらず、机がとり散らかったその中心で、誰かが誰かの上に馬乗りになっていた。その上になった人影がやけにゆっくりと拳を振り上げるのを、俺は半ば呆然と信じられない思いで見つめた。
「篠井!よせ!やめなさい!!」
学年主任が叫んで、それで俺は我に返った。そして、自分の目がどうかしたわけではないことを知る。
見間違いではなく、馬乗りになって拳を振るっているのは篠井だった。
体育教師が慌てて篠井を引き剥がしにかかり、学年主任は養護教員と担任を呼んでくるように俺に言って倒れている奴のところへ駆け寄る。
俺がそこから動けないでいると、急げと一喝され、俺は震える足をどうにか抑えて保健室へ向かった。
混乱したままノックもせずに保健室のドアを開け、もう帰り支度をしていた養護教諭に声をかけてから、次に職員室へ行った。担任はやはりおらず、他の先生に聞くとたった今帰ったところだと言われて今度は教職員の玄関へと走る。その途中で運よく担任を捕まえることができた。
教室に向かいながら手短に事情を話す。篠井の名前を出したとき、担任は眉を曇らせて呟いた。
「篠井か…まずいな…」
何のことかと尋ねる前に教室についた。しかし教室には誰もおらず、机が乱れたままだった。
担任は詳しい事情は月曜に聞くから今日のところは帰るようにと俺に言い、どこかに電話をかけながら去っていった。
そう言われたものの、帰る気にはとてもなれず、俺は乱れた机をのろのろと片付けはじめる。
―― 俺があんな風に言ったから篠井は戻ったのだろうか。
自分は間違ったことも嘘も言っていないつもりだ。それは後悔していない。
だけど、以前俺を助けたのは遥に言われたからかという問いを篠井が否定しないのに腹がたったのも確かだった。
好きにしろなんてよく言えたものだ。ほとんど、やつあたりじゃないか。
机を元通り並べ終えて、自分の席に腰をおろす。そこで、篠井が来るまで待つつもりだった。
しかし、見回りの教師が来るころになっても、誰も教室には戻ってこなかった。
その夜、思い切って篠井にメールした。感情的になってしまったことの謝罪と、俺が助けようとした奴を結果的に篠井が助けてくれたことへの礼を、なるべく丁寧に誤解や齟齬のないように慎重に文面を綴った。
その夜には返事は来ず、翌日の夕方に「別に亮くんのためじゃない」とだけ書かれた返事が来た。
あまりにそっけない返事に俺は落ち込み、追い討ちをかけるかのように、その夜、父親から1月の異動で東京に戻ることになりそうだと告げられた。
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