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遙か
11
 夏の昼寝は最高だ。
 窓から川の風が入ってきて、時折、母が母屋の軒下に吊るした風鈴の音が聞こえてくる。
 畳の上に寝転んでうとうとしていると、扉を叩く音に起こされた。母親かと思って返事をしたが一向に誰かが入ってくる様子はなく、起き上がってドアを開けると篠井がそこに立っていた。篠井はいつもより少しきちんとした格好をしており、彼を初めて見たときに王子様のようだと思ったことをふと思い出す。
 ただ、いつもは表情豊かな顔が今日は何の色も見せておらず、少し妙な感じがした。
「どうしたの」
 俺が突然の来訪の理由を尋ねると、篠井は無表情のまま手に持った袋を俺に押し付けるように渡し硬い声で言った。
「漫画返しにきた」
「え、もう読んだの?…別にまだ返さなくて良かったのに」
「読んでない」
 篠井はそっけなく言い捨て、俺がどういうことかと聞きかえすまもなく踵を返す。
「せっかく来たんだしさ、ちょっとあがってけば?」
 その背中に声をかけたが、それに返事をよこさずに篠井は歩き出した。なんだか様子がおかしいように思えて、俺は少し迷ってから彼の後を追うことにした。
 
 
 篠井は長い足で早足に歩き、俺はその後をどうにかついて行く。
 あまりに何の反応も見せないので、俺が後ろにいるのに気づいているのかもわからず、どう声をかけたものかと思っていると篠井が前を向いたまま言った。
「…なんでついてくんの」
「あ、えーと、漫画買いに行こうかなー…とか思って」
 あまりに不機嫌そうな声に思わず苦しい言い訳をしてしまう。
「こっちに本屋もコンビニもねぇよ。うぜえ。ついてくんな」
 吐き捨てるように篠井は言い、いつもと違うその乱暴な口調と声に肝が冷える。だけど、従ってはいけない気がなぜだかして、俺は腹を括ってそのまま篠井の後についていった。
 篠井はどこか目的があるのか足を一向に止めようとせず、俺は一度も来たことのない道のりが少し心配になった。ここから一人では簡単には帰れそうにない。
 民家の間の細い路地を抜け畑の広がる農道を通り、また民家の集落を抜けると、土手に沿った道に出た。その土手に設えられた階段を篠井は登っていく。その後について土手の上にあがるとそこは遊歩道のようになっており、下には川が広がっていていた。振り向くと遠く離れたところに俺の家の近くを通る国道らしき鉄橋が見え、知っている道を発見して少し安心する。

 それからどれくらい歩いたのかやがて日も暮れてきて、一体どうして篠井の後を歩いているのかもはや自分でもその意味を見失いかけた頃、篠井が言った。
「…大丈夫だからさ、もう帰れよ、ほんとに。…別に自殺とかしないから」
 その言葉にぎょっとして立ちすくむ。すると篠井は立ち止まってから肩越しに少しだけ振り返った。
「ああ、なんだ。そう思ってついてきてたんじゃなかったの」
「じ、自殺って…お前…」
 動揺する俺に篠井は何の感情も見せず、再び歩きだした。ますます帰るわけにはいかないと、気をひきしめて後をついて歩く。
 自殺しないと言いはしたが、そんな言葉が篠井の口からでたこと自体がショックだった。彼のあまりにいつもと違う様子に、まったく考えていないことのわけでもないような気がして、胸騒ぎが収まらない。
「…なにかあった?」
 背中に問いかけてみても篠井は答えなかった。だけど彼の歩みは先ほどよりずいぶん緩やかになっていて、急げば並んで歩くこともできたが、俺はなんとなく彼の後ろを歩くことを選んだ。
「自殺とかさ、冗談でもそんなこというなよ」
 一体、彼に何があったのだろう。遥に指輪を渡して全部終わりにして、漫画を読むって、笑っていたのに。
 もしかして、遥と何かあったのだろうか。あるいは、遥に何かが。
「篠井がいなくなったら、俺また一人になるじゃん。新学期からどうすればいいんだよ」
 こんな局面で、陳腐なことしか言えない自分が嫌になる。
「……一人?」
 しかし、呟くように篠井は言って、足をとめると俺の方を振り返った。
 篠井は何か考えをめぐらすように視線をさまよわせてから、俺を見た。俺の家で一度顔はあわせたはずなのに、その時、篠井の目に初めて自分が映ったような気がした。
「そうだよ、俺、篠井しか友達いないんだからさ」
「俺しか…?」
 確かめるように尋ねられて、強く頷き、頷いた顔をあげて俺は驚いた。
 無表情なままの篠井の頬を涙が伝っていた。
「…やべえ」
 そう言って篠井は涙を手の甲で拭った。俺は同じ年の男が泣くのを目の当たりにして、どうすることもできず、ただ呆然と篠井を見つめるだけだった。本当に一体、何があったんだろう。
「男が泣いたらいけないのに」
 篠井は自分を責めるように呟いて、唇を噛む。
 俺が泣かせたわけでもないのに、なんだか悪いことをしてしまったような気がして、わけもなく焦りを感じた。
「いけないってこともない、と思うよ」
 俺がそう言うと篠井の目からはまた涙がこぼれた。篠井は今度は涙を拭うことをせず、頬をとめどなく伝う涙は彼のシャツを濡らす。
 男前は泣いても絵になるんだとぼんやりと場違いなことを考えたとき、犬を連れた年配の女性が横を通りすぎ、俺たちにちらりと目を向けていった。
 それで俺は人目を避けるために、泣き続ける篠井の背中を押すように促して、川の方へ土手を少し下った。彼のためにハンカチでも差し出したかったが、あいにく持ち合わせてはおらず、間抜けにも俺はどうすることもできない。
 夕陽に照らされて涙を流す篠井の綺麗な横顔を、俺はただ見守ることしかできなかった。
 

 篠井が泣き止んだ頃にはもう日はとっぷり暮れていて、暗い土手の上を今度は篠井と肩を並べて引き返していった。
「…指輪、渡せなかったんだ」
 俺への一連の態度を謝ったあと、篠井は話し始めた。
「今日遥の誕生日でさ。俺とお袋と遥で飯食いに街に行ったんだけどさ、遥が結婚指輪受け取りにいくっつってデパートにも行ったわけ。そしたら、あいつ、俺が指輪買った店に入っていってさ。出てきた指輪が俺が買ったやつとまるっきり同じで。…なんか、さすがに渡せなかった。終わりにし損なったって感じ」
「…嘘、だろ」
 あんなにたくさんの種類があったのに。
 その偶然が俄かには信じられず思わず聞き返したが、篠井は力なく笑って言った。
「ほんと。違うのは裏に彫ってある文字と、男物の指輪がもうひとつあったってことぐらい」
「…ごめん。俺のせいだ。俺が、余計なこと言ったから…」
 シンプルなものがいいとか、人気のあるものをとか、俺が余計な口出しをしたせいで、篠井は遥との約束を果たせなくなってしまった。
 そう思うと罪悪感でいっぱいになって、俺は立ち止まって俯いた。篠井にどうわびればいいのかわからなくて、今度は俺が泣きそうになる。
「ええ?亮くんのせいじゃないだろ。選んだのは俺なんだからさー」
 少し焦ったような篠井の声も口調ももういつもの調子で、俺を少しも責めるものではなかったが、それが余計に胸に堪えた。
 何度も謝る俺に、篠井は困ったようにしていたが、やがて遠慮がちに言った。
「…そんなに謝るならさ、亮くんにお願いがあるんだけど」
「何?俺にできることならなんでもするよ」
「手、繋いでもらってもいい?」
「は?」
 思いもかけない言葉に思わず聞き返す。男同士でなんでそんなことをと思ったが、篠井はどうやら本気のようで俺に手を差し出した。目の前に出された指の長い大きな手に戸惑って篠井を見上げると、涙の跡の残る顔で篠井は不安そうに弱々しく笑う。
 その表情になんだか胸がつまってたまらなくなり、俺はおずおずと彼の手をとった。
 
 
 知っている人に会わないようにとひたすら祈りながら、篠井と手を繋いで土手を歩いた。もっとも、もう陽はすっかり落ちているから会ったところで見えないかもしれないが。
 土手を降りるときに手はおのずと離れ、そのまま篠井は道に不案内な俺を家の前まで送ってくれた。
 篠井の家まで歩いて帰るのは大変だろうし、もう遅いので親に頼んで車を出してもらおうかと言ったが、篠井はそれを断った。
 篠井はむき出しのままの指輪をよこして、それを俺に捨てて欲しいと妙に晴れ晴れとした顔で言い残して帰って行った。
 
 部屋に戻って指輪を灯りの下で見ると、裏には篠井の大切な人のフルネームが彫ってあった。
 捨てて欲しいとは言われたが、俺はそれを捨てる気にはとてもなれず、机の中にしまった。

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