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遙か
10
 何を言えばいいんだろう。
 離れの俺の部屋に移動する間も、俺の部屋に布団を敷いている間も俺と篠井の間に会話らしい会話はなく、気まずい空気が流れていた。窓は閉め切ってクーラーをかけているので、川の音がかすかに聞こえ、それがかえって重い沈黙を強調する。
 指輪に彫られた名前、お姉さんと彼女の名前の一致、そして彼のぎこちない挙動。
 それらを結びつけて考えれば考えるほど、触れてはいけないことに行き着いてしまうような気がして、心が落ち着かない。
 寝るにはまだ少し早い時間だったが、疲れたと言って寝てしまおうかと思った時、篠井が言った
「…何か言いたそうな顔してる」
 ついぎくりとしてしまう。それを隠そうとして、用意して言うのをやめることを選んだ言葉が口を滑り出た。
「さ、篠井のお姉さんと篠井の彼女ってさ、同じ名前なんだね。偶然てすごいよな…」
 台本をそのまま読んでいるかのような不自然な口調になってしまい、もういっそ聞こえなかった振りをしてくれと思う。
 しかし篠井は目を伏せて、彼らしくない自嘲めいた笑みを浮かべた。
「…同じも何も。…俺が指輪を買った相手も彼女って言ってたのも姉ちゃんのことだよ。気づいてんだろ」
「…なんで」
 なぜ彼女なんて嘘をついたのか。なぜそんな嘘をついて指輪を買ったのか。
 自分が言った「なんで」がどちらを指しているのか自分でもわからない。両方なのかもしれない。
「姉ちゃんと約束したんだよね。小さい頃、結婚しようって。大きくなったら指輪くれなきゃだめだよとかって、姉ちゃん言ってさ」
「…そうなんだ」
 決して守られることはないとわかりきっている幼い約束。
 俺は兄弟がいないし、引越しが多くて幼馴染といえる存在もいないから、そういう思い出が少し羨ましい。
 なぜお姉さんのことを彼女だと嘘をついたのかはわからないが、あの指輪は、好きという感情の種類がひとつしかない時代の無責任な約束の一片を果たすためのものなのだろう。
 俺はその無邪気な理由に安堵し、篠井の律儀さを微笑ましく思った。
 しかし篠井は拳を握って俯き、呟くように言った。
「…そういったのに、姉ちゃんは別の男ともうすぐ結婚するんだ。…俺との約束破って」
「……」
 震える声で責めるように言い放つ篠井に俺は戸惑った。
 その約束は、大きくなった今では笑い話でしかないはずだ。
 なのに篠井はまるで本当の裏切りにあったように、辛そうに唇を噛み、俺には彼が今にも泣き出しそうに思えた。
 一度は消えたはずの考えが再び浮かぶ。
 
 篠井は、まさか、ほんとうに――。
 
 俺は返す言葉を失って、視線をさまよわせた。何か言わないとと思って口を開きかけては何も思いつかず、そのまま口を閉ざす。そんなことを繰り返していると、篠井は深いため息をついてから俺に笑ってみせた。
「そんなさー、困った顔しなくてもいいじゃん」
「……ごめん」
「なんで亮くんが謝るんだよ。もう寝ようぜ」
 そう言って篠井は布団に入った。俺もクーラーのタイマーをかけ、常夜灯にしてから布団に横たわる。
 きっともう話したくないのだろうと思ったが、しばらくたって暗闇の向こうから篠井の声がした。
「…本当の姉弟じゃないんだ」
 俺の返事を待たずに篠井は続けた。
「従姉弟同士なんだよ、本当は。俺の本当の母親は俺が小さい頃蒸発しちゃってさ、今の母ちゃんは本当は伯母さんなんだ。母親の姉貴」
 篠井の突然の告白に戸惑う。
 俺に聞かせたいのか、それとも俺が聞いてなくてもかまわないのか、篠井は静かな声で話しはじめた。
「母ちゃんは実の子ってことにして育てたかったみたいだけどさ、俺のね、一番はじめの記憶ってさ、多分、母ちゃんと姉ちゃんが俺のこと迎えに来たときなんだよね。電車の音がうるさい部屋に一人でいたら、とつぜん知らないオバさんと女の子が入ってきて、泣きながら抱きしめられるっつーね。もっとも、ガキの頃はわけわかってなくて母ちゃんのこと本当の母親だと思ってたんだけど」
 篠井の家のことを以前聞いた時は、仲のよさそうな家だと思った。
 気の強い姉と、そんな姉のやつあたりを甘んじて受ける弟と、姉を叱り飛ばす母親と。
 あの時はどこにでもある普通の家庭だと思ったのに、そんな事情があるなんて、まったく思いもしなかった。
「母ちゃんがさ、普段は呼び捨てなのに、酔っ払うと俺のことちゃん付けで呼んで泣いて謝るんだよ。ごめんねって。伯母さんがなんでもしてあげるから、お母さんのこと許してあげてねって。いまだにそうだから、いつまでたっても母ちゃんにとって俺は『妹が捨てた子ども』なんだろうな。…まあ、ともかく、初めてその意味わかったとき俺家出してさ、月並みだけど俺は一人ぼっちなんだーとか思って川の土手のとこ、がーっと走ってって迷子になって」
 篠井の家のある商店街から、堤防のある川は相当な距離のはずだ。そこまで子どもが行くには相当な時間がかかっただろう。
「そしたら遥が探しに来てくれて。だけど何言われても俺きかなくてさ。そしたら遥が大きくなって自分と結婚すれば私とお母さんと本当の家族になれるよって言ってくれて。それで説得されてあっさり家に戻ったっつー。…昔から単純だな、俺は」
 そう言って篠井は低く笑った。
「俺は馬鹿だから、それからずーっと遥は俺と結婚してくれるもんだと思っててさ。遥に嫌われないようにしなきゃってそればっかり考えて、遥が大きくなってどうしようもねえ男と付き合いだしてもさ、遥は俺にああなってもらいたいんだなとかしか思わなくて、そいつの後ついて馬鹿やって。遙がそいつに捨てられた時、殺してやりたいって言ったからこっちが死ぬの覚悟でボコりに行ったりとかね」
 だけど結構あっさり勝てたと篠井は得意そうに言う
 そこで話は途切れ、沈黙が降りた。
 クーラーが止まる音がして、起き上がって常夜灯を消してから窓を開ける。すると、風が入り外の音が響いてきた。
 離れた田んぼの蛙の声。どこか遠くで鳴いている蝉の声。それから川の音。
 その音に川沿いを走ったという幼い篠井の姿を想像してしまって、少し胸が詰まった。
「…ずっと遥の気に入るようにだけやってきたつもりなのに、遥は別の男と結婚するんだ。ひでえよな。俺と正反対の、大学出て役所に勤めてるような堅いやつと。そんでしれっと俺に言うんだよ、馬鹿ばっかりやってないできちんとしろって。学校行け、大学くらいでとけって。だから言ってやったんだ。『馬鹿やってる男が好きだったはずじゃん』って。そしたら痛いところつかれたみたいでヒス起こされて炊飯器がびゅーんとね」
 彼女のために大学に行くのだと篠井が言ったことを思い出す。
 全部、彼女のいいようにしてやりたいと。
 篠井はため息をつき、今の空気を振り払うようにわざとおどけたように言った。
「もうね、馬鹿馬鹿しいから約束の指輪渡して終わりにしようって思って。来週、遥の誕生日だから、その時渡してもう終わりにする」
 何を終わりにするんだろう。
 遥との約束を信じることなのか、遥のいいように振舞うことを終わりにするのか、それとも遥を想うことを終わりにするのか。
 俺に『彼女』がいると言ったのは、篠井にとってはそれが真実だったからなのかもしれない。遥は家族ではなかったのだから。
 だけど、なんとなく篠井の彼女への想いは恋愛とは違う気もした。
「遥が結婚する奴さ、どんなにやめろっていっても電車の中で漫画読むのやめないんだって。馬鹿だよな。俺は遥が言えばやめるのにさ。…遥が望むならなんだってするのに」
 それきり、篠井は何も言わなかった。
 
 

 翌日、起きるなり篠井が気恥ずかしそうに言った。
「亮くん、昨日のこと誰にも言うなよ。つーか、忘れて。お願い。あー、俺どうかしてた」
「誰に言うんだよ。俺友達なんて一人もいないのに。知ってんだろ」
 だから口外することはないと安心してもらいたいと思っていったのに、篠井は怪訝そうに眉を顰め、唇を尖らせた。
「俺は友達じゃないの?」
「…篠井と俺が…?」
 意外な言葉に俺は目を丸くした。
「何その反応。ひっどいなー。亮くん、俺のこと友達って思ってなかったんだ…」
「い、いや、思ってるよ。うん。思ってる」
 慌てて答える。篠井は俺を友達だと思ってくれていたことに、じわりと嬉しさが広がった。
「怪しいな…。あ、そうだ、亮くん、漫画借りてっていい?俺が読まなくなった号から全部」
 そんな俺に能天気に篠井は言った。
「指輪渡したら、全部終わりだから。その後、読もうかなって思ってさ」
 何かが吹っ切れたように笑う篠井に俺はうなずいた。

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