13
やはりどこの班も自由行動で疲れて早く就寝してしまっているのか、廊下は静まり返っていた。
今日のホテルも昨日泊まったホテルと似たような造りで、建増しを続けたかのような長い渡り廊下を、逃げ出したい気持ちを抑えながらどうにか水落の後をついて歩く。
一般の客がいるので行ってはいけないと言われていた棟に足を踏み入れる時、少し躊躇したが、俺に水落をとがめられるはずもなかった。そして、誰かに見つからないかびくびくしながらついたのは、地下のすでに営業を終えて明かりの落とされたゲームコーナーだった。
区切りのないそこは人気はまったくなく、明かりといえば、さらに奥にあるカラオケボックスからのものだけだ。そこからは、利用者がいるのかかすかに振動と音が漏れ聞こえてきて、それがよりいっそう周囲の人気のなさを際立たせているようだった。
通路からはゲームの筐体で死角になりそうな場所に来ると、ようやく足を止めて水落は俺を振り返った。
「馬鹿か、お前」
開口一番そう言われて、完全に萎縮して彼の目をみていられずに俺はうつむいた。
「……あの…ご、ごめん」
「もっと良く考えて話せ」
「………え」
もっと良く考えて話せなんて、正直こちらが水落に常々言いたいことだ。だけど、とてもじゃないけどそんなことは言えない。怖くて。
口ごもる俺に水落はため息をついた。それについびくりと体を震わせてしまう。
それに気づいたのか水落は若干口調を和らげて言った。
「…俺のために、お前が嘘つく必要なんてない。後で成田に訂正しとけ。いや、俺がしておく。お前はもう何も言うな」
嘘?水落は何を言ってるんだろう。
俺は嘘なんていっていない。訂正することなんて何もない。
「……訂正なんてすることないよ。でも、水落が恥ずかしいなら、そうすればいい」
たまらずに視線を下に向ける。
こんな時にまで卑屈なことを言う自分が嫌だ。恥ずかしいならなんて、恥ずかしいのに決まってる。それなのに、そんなことはないという答えを無理に引き出すような、こんな言い方はとても卑怯だ。
だけど水落の返事は、否定も肯定もしない戸惑いを含んだものだった。
「…何言ってるんだよ。お前、俺のことなんて好きじゃないだろ?」
何言ってるんだは水落の方だ。
「…好きだよ」
呟くと、覗き込まれるようにして視線を捕らえられた。
「違うだろ。ちょっと付き合ってたのだって、俺に押し切られてただけだっただろ?もっと良く考えてみろ」
どうして信じてくれないんだろう。
俺に好かれるのがそこまで迷惑なのかと、ぜったいに面倒な真似なんてしないのに、想うことさえ許してもらえないのかと思った途端、鼻の奥がつんとした。歯をくいしばって慌てて目を瞬かせる。
こんな局面で泣くなんて、鬱陶しいことこの上ない。せめてこれ以上心象を悪くしたくないと俺は必死の思いで涙を堪えた。
水落がどこか当惑したような顔をして、自分が相当みっともない顔を晒していることに気づいた。慌てて手の甲で顔を隠す。
もうこうなると、何も言えなかった。何か言ったら、しゃくりあげてしまいそうで。
カラオケボックスから漏れてくる調子のはずれた陽気な歌に意識を向けて、どうにか感情の波をやりすごそうとしていると、水落がぽつりといった。
「……ごめん。俺が変な駆け引きしたせいで、お前、混乱してるんだな」
駆け引き?
言われた意味がわからなくて、水落に目だけ向ける。すると視界が少しにじんで、何度も瞬きをしてどうにか涙を散らした。
水落は少しかがめていた体を起こすと、気まずそうに俺から目を逸らした。こんなときなのに、かすかに動いた長い睫が綺麗だと思ってしまう。
「少し冷たくしておいて、自由行動で二人きりになったときに思いっきり優しくしてやろうって思ってたんだよ。そうしたら少しはお前に揺さぶりかけられるかなとかくだらねえこと考えてた」
言われたことを頭の中で反芻して、いよいよ泣きそうになった。だけど今度はそれは安堵からくるものだ。
なんだ、嫌われたわけじゃなかったんだ。
「…そ、相当効いたよ。まだぜんぜんちっとも優しくされてないけど」
もう何も考えられずに思うままにそう言うと、水落は少しだけ笑った。
それはさらに俺を安心させたが、ふと疑問が沸いた。なら、なぜ自由行動のとき、水落は成田たちと行ってしまったのだろう。
「……俺に冷たくされて辛かった?」
尋ねられて頷くと、水落はそれこそ辛そうに唇をゆがめた。
「ごめん」
謝る水落に俺は首を横に振った。嫌われていないならもういい。
また元通りになれるなら、それ以上のことはない。
それなのに水落はまるで言い聞かせるかのように俺に言った。
「俺がくだらねえ真似したせいで、お前は勘違いしてるんだよ。本当はお前は俺のことなんか好きじゃない」
言われたことを頭の中で繰り返す。そうなんだろうか。
確かに俺は水落のことが怖くていつも彼の顔色を伺ってばかりいたけど。でもそれなら、ちょっと冷たくされただけでここまで悲しくなる理由がわからない。端から敵うはずない成田に嫉妬して、気を遣ってくれた近藤の誘いを断って、水落の視線を捕らえたくて。ここまでくればさすがの俺でも自分の気持ちなんて、もうわかっている。
「もういいから」
俺の考えを断ち切らせるような水落の声に俺は我に返った。
「もうつきあうとかは無しだ。振り回して悪かった」
それを聞いた途端、血の気が引いた気がした。
「いやだ」
思わずそう言うと、水落は不可解なことを言われたように眉を顰めた。
「なんでだよ」
「なんでって……」
尋ねられて、言葉を捜す。
「だ、だって、そうなったらずっと昨日みたいになるんだろ。目があっても逸らされて、水落は成田とばっかり話して、俺は避けられるんだろ。そんなの嫌だ」
ぼそぼそとそう告げると、水落は何事か考えるように視線をとめて、諦めたように言った。
「わかった。今までどおりにする。だけど俺たちはもうただの友達だ。それでいいな。本当に、成田には俺からいうからお前は黙ってろ」
そういうと水落はもう話は終わったとばかりに俺の横を通り過ぎた。
「良くない!」
その背中をひきとめたくて、反射的に俺は口にしていた。その声は俺にしてははっきりとして、誰もいない周囲に響き、水落は驚いたように振り返った。
「……お前にとっては今までと全然変わらない。だから別にいいだろ」
いつか同じような言葉を聞いたような気がする。
「違うよ。全然違う」
これも、やっぱりいつか聞いた言葉だ。ただ、これをいったのは俺ではなかったような気がするけど。
水落は、完全に俺に振り返った。
「違うってどう違う?」
「え…えっと」
至極ごもっともな問いかけに俺は俯いて口ごもった。すると水落はため息をついてから、言った。
「……お前のためにも終わりにした方がいいんだ。……成田にばれたんだよ。俺がゲイだって」
顔をあげると水落は感情をなくしたように俺から目を逸らした。
それは俺も知っている。でも、だからと言ってそれがどういうことなのか俺にはわからなかった。だってそう聞かれたときの水落は平然としていて、成田だって別に揶揄するわけでもなかったのに。
「で、でも、成田はたぶん誰にも言わないと思う…」
成田が知っていたからといってどうということはない。誰にも言わないように頼めばいい話だし、成田は信用できる人間だ。
「……どうだか」
そう言った水落の声は、嘲笑を含んだ容赦のない冷たいもので俺ははっとして水落を見た。
「こうなったら広まるのは時間の問題なんだよ。秘密だったはずが、誰にも言うなって前置きがついて誰かに話されて、人を経由するたびにその前置きすらもなくなって。そのうち知るはずのない人間からまで、お前は男が好きなのかと訊かれるようになるんだ」
やけに具体性を帯びた言葉に、まるで本当に水落はそういう経験をしたようだと思う。
水落は言葉を切って、口元だけで笑った。
「……そうなったらな、もう笑うしかねえよ」
不意に、成田に尋ねられたときに笑っていた水落を思い出した。
俺は彼にとっては余裕のことだからだと思ったけど、あれは諦観だったのだろうか。
「水落……」
「…実際に、中学のとき、親友だと想っていた奴数人に話したら、あっという間だった。もちろん誰にも悪気はない。みんな自分が口が堅いと信頼する人間に話しただけで、それが伝わっていって。気づいたら学校中に知らない奴はいないくらいになってた」
「……」
俺は何も言えなかった。
中学のことはおろか、自分自身のことを他人に話そうとしないこと、それに近藤から中学のことを聞いたと言った時の過敏な反応を思い出す。
「俺が話した奴らは土下座する勢いで謝ってた。そいつらのことはどうとも思ってない。それに本当のことだから広まったってどうってことない。堂々としてればいい。……そう思ってたけど、陰で指さされて笑われていると思うと、だんだん自分が悪いことをしたような気分になって消えたくなる。それにな、噂からは逃げても逃げ切れない。地元から2時間離れたところに進学したって半年でこのザマだ」
そう言って水落はどこか悔しそうに俯いた。
誰にも悪気はないと水落は言ったが、噂が広がる過程で、やっかみのようなものもあったのかもしれない。
水落は成績が良くて部活も県大会にでるほどで、いつも正しくて、しかも他の学校の女の子から写真を頼まれるほどの容姿で。
そんな目立つ人間の秘密を、ほんの少しの罪悪感と引き換えに話題にする気持ちは、悲しいことに俺にも想像がついた。口にする方に悪気はない。それはただの、意外性を含んだちょっとした面白い話で、それがどれほど本人を傷つけるかなんて思いもしないだけで。
「俺は別にいい。慣れてる。でもお前まで他人から変な目で見られるのは耐えられない。俺のせいで、好奇の目にさらされるお前を見たくない」
そして水落はもう一度、だから終わりだと言った。
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