HEAD
震える吐息(R15)
「──くせぇ」
 シェーキを一口飲んで静雄は、ぽつりと呟いた。え、と正面の席に座ったトムが顔をあげる。
「あ、いや、何でもないっす」
 口先だけは否定しながら、周囲に視線を走らせる。
 ──やはり、どこからともなくノミ蟲の匂いがした。
 クーラーの効いた店内から一歩出ると、むわっと蒸し暑い空気が体を包む。それと共に、嫌な匂いが強くなった。
 周囲に神経を集中させていると、一人で先を行きかけたトムが振り返る。何でもないと後を追おうとした瞬間、喫茶店から黒い人影が出て来た。
「い〜ざ〜やぁ〜っ!」
 反射的に堪忍袋の緒がぶち切れる。
 微笑む臨也に手近なカーブミラーを投げつけると、面白いように人波が割れた。
 踵を返す彼を追って、人混みの中にできた通路を駆け抜ける。
 太陽がじりじり肌を灼いた。


「ねぇ、シズちゃん」
 路地に追い詰められているはずの臨也は、顔に笑みを貼り付けたまま、ナイフを構えた。壁に背後を塞がれた男の喉元めがけて標識を一振りする。ひらりと跳び上がった体が、止まれの文字の上にふんわり着地した。
 落とそうと上下に動かすと、彼はまた飛びたち、静雄の背後に舞い降りる。振りきった標識が臨也の頭上を通過して、黒髪が数本犠牲になった。
 即座に下から上に舞った刃先が、ベストを浅く抉った。
 不快な線が一筋刻まれる。
 今度は静雄の背後が壁になった。
 投げつけられたナイフがシャツの袖を裂いてコンクリートにぶつかり、地面に落ちる。
「てめぇ…幽に貰った服を──」
「その外見で服が大事だとか、心底滑稽だからね」
 臨也の首と胴体を切り離してやろうと動かす標識は、掠るだけで、決定的なものは与えられない。
 ふっ、と身を屈め、間合いに飛び込んで来た臨也の笑顔が眼前に迫った。
 ぞわり、とした。
 空いた左手でその頭部を割ってやろうと拳を翳した瞬間、有り得ない場所に触れられて動きが止まる。
「なっ…?」
 股間を下から包み込むように触れた臨也の左手に、ぐっと力が込められる。
 がしゃん、と大きな音をたてて標識が落ちた。
「あはは、シズちゃんでもここは痛いんだねぇ」
 嬉しそうな声音が癇に障る、が、それどころではなかった。
 膝が震えるが、原因を産み出す臨也のせいで腰を落とせない。
 骨を砕いてやる、と彼の左手に触れた掌は、弱点に更なる力を加えられることでその余力を失った。
 息が苦しい。
「そっかぁ…シズちゃんはなかなか死ななくても、男のシズちゃんなら、殺せるんだね」
 耳鳴りがして、冷や汗が全身を濡らす。
「…っの、や…」
 悪態も、まともにつけない。
 呼吸が上手くできないのだから当然だ。
 眼の前に霞がかかる。
 活かすでなく、殺すでない、絶妙な力加減──体を支えきれず、前のめりにくずおれた。臨也のコートのファーが、鼻先を擽る。
「潰すつもりだったけど…思ってたより可愛いから、許してあげる」
 臨也が何か言っているが、もはや意味を掴めなかった。
 そっと手が離れても、うまく空気を取り込めず、肺が痙攣する。
 じわじわと痛みが体に吸収される。
 生理的に滲んだ涙を指先で拭われ、強張る唇を柔らかいものが覆った。
 食い縛った歯列を一舐めして離れた温もりは、忌々しい笑みを形づくる。
「──またね」
 コンクリートの壁に背を押し付け、小さくなっていく黒い人影を、立ち上がることもできず見送る。熱く湿った空気が、喉奥で絡んだ。


2011.6.7.永


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