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心臓ハンター
空気が重たい。すんと鼻を鳴らす、雨の匂い。べとりとまとわりつくようで、どこか生暖かい空気。こんな日は何故だか気が滅入りやすくなる。
磯部悠哉は大きく息を吸い込んだ。何故か肺が重たくなったように軋む気がした。
「一雨、くるかな」
空に向かってぽつりと呟く。あいにく今日の持ち物はこの鞄一つで、雨を凌ぐものは何も持っていない。鞄にはいっているのは缶ペンに教材、電子辞書。冬期講習の為に、駅前の塾に来ていたのだ。
早く帰ろう、お腹もすいたし、頭も痛いし、どこか足も重い。
ずきずき頭が痛んだ、何だか後ろを向いてはいけないような感じがした。本当に何故だか分からないのだけれど。
それでも、家に帰るには後ろを向かなければならない。くるりと踵を返して帰ろうと思った。
心底後悔した。何故寄りによって今日の今なのだと。
目線の先には、一希と見知った奴がいた。色素の薄い柔らかそうな髪、人を皮肉るような口調のあいつ。瑞垣俊二。あぁ嫌じゃな、頭痛が酷うなった。
少し遠いため何を話しているか分からない。一希が瑞垣に食ってかかるようになっているのは分かる。
ぼうとしばらくそれを見ていた。ぽつりと頬に何かが落ちた、冷たい。雨が降ってきたのだろう。磯部ははっとして、二人に焦点を合わした。
「一希…会い……か」
「……そうじゃ……じゃ…い」
途切れ途切れにでも聞こえてくるのは、二人が大きな声で話しているからだ。珍しい、一希があんな声を出すなんて。
ぽつりともう一粒雨が降ってきた。二人の言葉の欠片を集めて、話を推測しようとするが、分からない。何を話しているのか?二人のところへ歩いていって軽く声をかければ良い、簡単なことだ。雨のせいか湿気のせいか、それとも他の何かのせいか分からないが、重い足取りで二人のほうへ歩いていく。
その間にも、雨はだんだんと強くなってきていて、傘が必要なぐらいになった。
歩きながら、自分の鞄を見た。教材、濡れてしまうな…どうしようか。
「しょうがない奴じゃなぁ」
一希の声が聞こえ、それとほぼ同時にバサッと傘が開く音がした。良かった、一希が傘を持っていた。これで濡れなくても良い。そう思いばっと顔をあげた。
目の前には、体を寄せ合ってなんとか傘に入りあおうとする二人が居た。
ずきりと心臓が痛んだ。
「っ瑞垣!狭い!」
「うわっ、出る出るっ」
一希も瑞垣も口では怒っているような口調だか、目は優しい。磯部はそこに足が縫い付けられたように動けなくなってしまった。
二人が歩いていく。
ちらり、一瞬、瑞垣と目と目があった気がした。
「っくしゅっ!」
あれからしばらくその様子を見ていた。そしてふと気がつけばびっしょりと雨に濡れていた。電子辞書が壊れていなかっただけましだ。
「はぁ…」
冷えた体を暖めるために、帰ってすぐにシャワーを浴び、炬燵へと潜り込んだ。あいにく両親ともに出かけているようで、家には一人だった。
ごつんと額を机にあててうなだれる。
俺、今日が冬期講習の最終日じゃて言うたのに…そりゃ、一希が迎えに来てくれるなんて思ってなかった。…いや、強がりは止めておこう。実は、ほんの少しだけ、少しだけだが、一希が迎えに来てくれるんじゃないかと期待していた。
わざわざ聞いてきたのはら向こうだったから。一希の笑顔を見れるかと思っていた。
何だか、虚しい。
はぁと大きなため息をつき、ポツリと呟いた。
「一希のあほぅ」
「なんじゃて?」
聞こえるはずのない声に驚き、ばっと顔をあげる。そこには一希が立っていた。
「いきなりあほはないじゃろう」
そう言うと、一希は俺の前へ座った。炬燵は暖かいなあなんて言いながら笑いかけてきた。俺はそれに答えもせずにそっぽを向いた。なぁどうしたんじゃ?なんて聞いてくるけど答えなかった、いや、何かもやもやするものがつっかえて答えられなかった。
流石におかしいと思ったのか、一希は真剣な声で悠哉と呼んだ。
「何、怒ってるんじゃ?一応、インターホンは鳴らしたぞ。なかなか出てこんから勝手に入ったけどな」
「別に何も」
思っていたより低い声が出た。何もないと誤魔化すつもりであったのに。案の定、一希は訝しげな顔をして見つめてきた。
「…いや、本当に何もな「瑞垣か?」
ぎくりとした、今その名前を耳にしたくなかった。
「悠哉、すまん、俺迎えに行こうと思っとったんじゃ」
「頼んでない」
とげを生やした言葉しか出てこない。良いじゃないか別に、一希は謝ってくれてるんじゃから。
「本当に、偶然じゃったんじゃ、あそこで待っとったら瑞垣と会うて」
「新田の駅で?…な、一希、それじゃったらなんで俺を待っとってくれやんかったんじゃ?」
「瑞垣が、傘持ってないって」
じゃから…と一希は小さく呟いた。俺だって持ってなかったよ、一希。…分かっとるんじゃ、一希が優しいこと。それに俺が傘を持っていなかったなんて知らなかったろう。
一希は悪くない、分かっとる、分かっとるんじゃ、でも脳裏にあの光景がちらつく。
ふと、脳内であの途切れ途切れに聞こえていた会話の一節がでてきた。途切れ途切れの言葉の隙間が埋まった気がした。
一希、会いたかったんか
パンと乾いた音が響いた。何の音だろう、疑問に思って自分の手を見た。何故か、ひりひりと痛い。まさか、と思って一希を凝視した。一希の左頬は痛そうに赤くなっていた。
まさか、嘘じゃろう、俺が一希を殴れるはずがないんじゃ、だって、俺は一希のことが…
「悠、哉」
怒っているような悲しんでいるような瞳があった。その二つの瞳が揺れる。
「ごめん、ちょっと出て行って」
「悠哉、でも」
「出てけ」
あぁこんな低い声も出るんじゃな。今までこんな声を出す機会なかったしな、知らんかった。一希は唇を噛みしめていた、そんなに噛むと、ほら、血が出るぞ。
「悠哉の、あほぅ」
ごめん、一希、悪いのは勝手に嫉妬してる俺のほうじゃ。一希は誰のモノでもない、何をしたってそんなの一希の勝手だ。けど、ちょっと思っていたんだ、一希は俺のことを特別に思ってくれてるんじゃないかって。
そんなの勝手な思い込みなのに
バタンと音を立てて一希は出て行った。
キィという音が妙に響いた。
*
『お、磯部ゆーや君のお宅ですか』
「……間違い電話ですよ」
気分も沈んで、何もやる気になれなかった。けれど一希に謝る気もなかった。そんなとき家電が鳴った。きっちりワンコールで切れた、かと思うとまたかかってきて長い間鳴っていた。
『待て、切るな』
俺が受話器を置く前に、瑞垣は真剣な声を出して俺を止めた。今、こいつの声を聞きたくないっていうのに。
「何じゃ」
『な、海音寺貰ってええ?』
「は?」
“海音寺貰ってええ?”頭の中にぐわんとその言葉が響いた。電話の向こうから泣き声が聴こえた気がした。
『な、ええやろ?』
「な、んでそんなこと俺に聞くんじゃ」
『なんでって、一応許可を得ておこうと思いまして』
そう言うと瑞垣はくすりと笑った。ぞわりとした感覚が背中を駆け上って、軽く手のひらに汗が滲む。
『可愛いし、一途やし、おまけに頭もええ。それになんと言っても』
そこまで言うと、瑞垣は息を止めた。手が、足が、何故か嫌な汗をかく。
『泣き顔めっちゃそそるわ』
ガチャンといって電話が切れた。俺の頭の中では瑞垣の言葉の意味を一生懸命考えていて。こういう時は頭がついていかない、上手く動かずにギシギシと音を立てているようだ。
「あほ、かっ」
でも体が素直に動くようで。俺は電話を切られた瞬間に玄関へ向かって走り出していた。
バタンと乱暴な音を立てて、ドアが開く。靴を突っかけて外に飛び出した。
一希、一希、一希
「っ、」
家の前の道で誰かとぶつかった。そいつはよろめきもしないでそこに突っ立っていた。誰じゃ、今急いで……
ばっと顔をあげてその光景に驚いた。
「みずが、き…」
「はろー悠哉君、お久しゅう」
「何で、こんなところ……一希」
瑞垣の背に隠れるように一希が居た。目の周りが赤く腫れていてちくりと心臓が痛んだ。
「ほな、俺帰るわ」
「は、ちょい待てっみずがっ……」
呼び止めようとしたら胸元をぐっと掴まれた。その形の良い唇が言葉を紡ぎ出す。
「感謝せぇ」
掴んでいた手を離すと瑞垣はぱっぱと手を払い、道を歩いていった。
前へ向き直ると一希は下を向いていた。俺が一歩近づくとビクリと反応を見せた。
どうすれば良いのだろう、心臓がばくばくと音を立てる。
「……向け」
「え」
「後ろ、向けっ」
どうしようかと考えあぐねていると、一希がそう言ってきた。はやく、と急かされ、訳が分からないまま後ろを向く。
「一希、?」
つ、と指が背中に当たった。そのまま指が動いていく。
“好き”
その手は少し震えていて。
その言葉を書いたのだと気づいた瞬間、頭が沸騰しそうなぐらい熱くなった。心臓が潰れてしまいそうだ。
くるりと、後ろを向いて返事を待つ一希に、言いようのない熱い何かが湧き上がって、それは風になり、俺の心臓を吹き荒らしていった。
心臓ハンターの留めの一言は
(まるで心臓を鷲掴みされたような)(甘い二文字でした)
俺は一希を後ろからきつく抱きしめた。
***
13000hitキリリク磯海
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